◎明治初年の世相批評(「今世いろは譬喩」全句を紹介する)
先月のコラムで、「大正震災かるた」を紹介したことがあったが、これは、戸板康二の『いろはかるた随筆』(丸ノ内出版、一九七二)に載っていたものであった。
同書には、明治初年の「今世いろは譬喩〈ダトエ〉」というものも載っている。こちらもなかなか興味深いものがあり、紹介してみたい。
戸板によれば、これは、もともとは『日新真事誌』の一八七五年(明治八)五月一四日号に載ったもので、石井研堂の『明治事物起源』にも収められているという。
い 一寸さきは闇の夜 日本開化の成行〈ナリユキ〉
ろ 論より証拠 迷鬼〈ジゴク〉の捕縛
は 馬鹿に付る薬がない 家禄奉還士族の不目的
に 憎まれ子世にはばかる 兵隊
ほ 仏の顔も三度 行政官離合
へ 屁をひって尻つぼめる 台湾征伐
と 虎に翼 内地旅行
ち 塵も積れば山となる 紙幣の高
り 綸言〈リンゲン〉汗の如し 四月十四日の詔書
ぬ 抜かぬ太刀の功名 シナの償金
る 類を以て集らず 吉原三業会社の紛議〈フンギ〉
を をか目八目 新聞紙の評論
わ 我が好〈スキ〉を人に振舞ふ 一夫一婦論
か 蛙の面〈ツラ〉に水 泥坊の評判
よ 夜目遠目笠の内 議官の特撰
た 短気は損気 江藤新平
れ れん木で腹を切る 封建論
そ 損をして得を見よ 高島嘉右衛門
つ 聾者〈ツンボ〉物に怖ぢず 華族鉄道建築論
ね 寝耳に水 小野組閉店
な 泣顔に蜂がさす 士族の商法
ら 来年の事を言ば〈イエバ〉鬼が笑ふ 大蔵省の計算
む 馬の耳に風 地獄の禁制
う うそから出た誠 民撰議院建白書
ゐ 鰯〈イワシ〉の頭も信心から 出開帳〈デガイチョウ〉
の のみといへば槌〈ツチ〉 外国の奸商
お 鬼も十八 当今洋学生徒
く 臭い物に蝿が集る 耶蘇〈ヤソ〉の説教
や 山の芋が鰻になる 元老院
ま 負けるは勝 巡査兵隊の喧嘩
け 下戸と妖物〈バケモノ〉は無い物 辞職官員の再任
ふ 武士は食ねど空楊枝〈カラヨウジ〉 西国の大将
こ これに懲りよ道西坊 台湾行〈ユキ〉の人
え 得手に帆をあげる 自由の誤解
て 亭主の好な赤烏帽子 輿乗〈ヨジョウ〉の貴人
あ 暑さ忘れりゃ蔭忘れ 廃漢学論
さ 三人よれば文殊の智恵 太政官
き 貴人に放蕩あり 華族の芸者狂ひ
ゆ 油断大敵 当世の人気
め 目くらの垣のぞき 無学の参議
み 身を引けば皮痛し 議官の情実
し 知らぬが仏 政府の内幕
ゑ 縁は異なものあじなもの 外国交際
ひ ひもじい時に不味〈マズイ〉物なし 商船仕直しの軍艦
も 餅屋は餅屋 三井組
せ 背に腹はかへられぬ 樺太の始末
す 雀の千声〈センコエ〉より鶴の一声 元老院章程
見てわかるように、この「字札」は、新しく作った短文句ではなく、すべて既存の「いろはかるた」にある「ことわざ」である。既存の、しかもよく知られたことわざを世相の事象と結びつけ、それによって世相を批評しているのである。ちなみに、ここでは、いわゆる「江戸いろは」と「上方いろは」の両方が使われている。
戸板康二は、この「今世いろは譬喩」について、「どういう意味かわからない、あるいはわかっても実感のつかめないものが多い」とコメントしているが、私などにとっては、「どういう意味かわからないものがほとんどである」という感が強い。
「短期は損気」(江藤新平)。これは、何とかわかる。征韓論争で下野した江藤は、佐賀の乱にかつがれ、一八七四年(明治七)に梟首された。この「かるた」が出た前年の出来事である。
「綸言汗の如し」(四月十四日の詔書)。これは、少し調べてみて、意味がわかった。一八七五年(明治八)四月一四日、いわゆる「立憲政体樹立の詔〈ミコトノリ〉」(正しくは「御誓文ノ趣旨ニ基ク立憲政体樹立ニ関スル詔書」)が出された。明治政府が板垣退助らと妥協し、「漸次ニ」(しだいに)立憲政体に移行するという方針を打ち出した。
この方針が「詔書」の形で公表されたので、「綸言汗の如し」(天子の言葉は一度出したら撤回できない)と評されたのである。「今世いろは譬喩〈ダトエ〉」が、『日新真事誌』に載ったのは、同年五月一四日、まさにリアルタイムでなされた政治批評であったことがわかる。
今日の名言 2012・7・19
◎幸ニ祖宗ノ霊ト群臣ノ力トニ頼リ以テ今日ノ小康ヲ得タリ
「御誓文ノ趣旨ニ基ク立憲政体樹立ニ関スル詔書」(1875年4月14日)にある言葉。激動の続く明治初年であったが、政府当局者にはこのとき、「小康」を得たという感があったのか。なお、西南戦争が起きたのは、この詔書の翌々年、1877年(明治10)のことであった。