◎河上肇の話術と大久保利謙の文章力
最近、河上肇という思想家のことが、何となく気になる。ひと月ほど前にも、このコラムで取りあげたことがある。
河上肇は、文章家として知られているが、「話術」もまた、なかなかのものだったらしい。日本近代史の泰斗・大久保利謙〈トシアキ〉は、かつて次のように述べていた。
河上は話術の名人で、経済や社会問題を論じても専門外の一般読者をよくとらえた。しかしこれは、単なる話術ではなく、その語りかけの底に河上独特の強烈なエートスともいうべきものがあったからで、それが河上の生涯を通じて、思想・行動にさまざまな遍歴をなさしめた。
これは、大久保利謙の「河上肇に関する思い出三つ」というエッセイの一部である。私はこれを、『佐幕派論議』(吉川弘文館、一九八六)で読んだが、初出は、岩波書店の『河上肇全集』の月報二一(一九八三)だという。
歴史家として知られる大久保利謙であるが、かつては、河上肇が在職していた京都帝国大学経済学部に学んだこともあった。
大久保は、学習院高等科時代の一九一九年(大正八)に、すでに河上肇の講義を聴いている。これは、河上肇の『貧乏物語』を読んで、「多大の感銘」を受けたことがキッカケだった。「河上肇に関する思い出三つ」には、そのことについても述べているので、引用してみよう。
そういった大正八年の夏休みに、新聞だったか、河上肇が東京で帝国教育会の夏期講習会で講演することを知った。これはのちに『近世経済思想史論』となった有名な講義である。まだそういう場にでたこともなかったので、一大決心をして河上肇の顔も見、講義を聴こうと思った。受講の手続きをして、開講日の八月九日には所定時刻に早目に教育会に出かけた。場所は飯田橋駅付近で、建物は田舎の中学校のような粗末な木造洋館の二階建てであった。会場は二階の講習会用のものらしく、狭い教室で正面に講壇、テーブル、黒板があった。聴講者用の学生用デスクが四十ぐらい、それに一杯いたから聴講者はそれぐらいだったろう。学生か中年の人で、いかにも夏期講習会の聴講者といった地味な人々であった。講堂に聴講者が溢れる〈アフレル〉といった盛大なものでなく、いたって物静かなものであった。
私は講壇のすぐ下に陣どって緊張して河上さんの出場を待っていた。そのとき、おかしな思い出がある。私は河上さんの顔は見ていない。しかし写真でその風貌は知っていた。いよいよ開講の時刻となると教室内はちょっと静まりかえった。すると左手の奥のドアが開いて一人の和服の男が入ってきた。私はハッとして一瞬その人が河上さんかと思った。写真と似ているようでもあるし、そうでもないようでもある、その男は講壇の上に上らず〈アガラズ〉なんだかもじもじしている。ハテナと思っていると、一、二分〈イチニフン〉してまた同じドアから別の男がでてきて、まっすぐ講壇の上にあがった。それが正真正銘の河上さんだった。さっき入って来た男は速記者だった。緊張がとけて、私は内心苦笑した。
河上さんは写真でみたとおりで、和服だった。講壇にあがると、風呂敷づつみをテーブルの上において、それから袂〈タモト〉から薬の袋をだして、散薬〔こなぐすり〕の紙づつみを開け、卓上のコップに水をついで薬をゆっくり飲んだ。そして、自分は信州の講演中から腹を悪くしているので失礼して薬を飲みます、と聴講者にことわった。それが終ると静かに講義のノートをとり出して、「まず緒言を述べます」といって、それから話を始めた。
大久保はこのあと、六日間にわたる講義を休まずに聴き、「大きな満足感を持った」という。これによって、京大経済学部で学ぼうとする意思を固めたものと思われる。
それにしても、大久保利謙という人の記憶力・描写力には舌をまく。河上肇は文章家として知られていたが、大久保利謙もまた、相当な文章家である。おそらくその文章力は、河上肇から学んだところが少なくなかったであろう。
なお、これは根拠があって言うわけではないが、大久保利謙という人の話術も、なかなか優れたものがあったのではないか。
今日の名言 2012・7・16
◎諸君、もし東京市のおわい屋が全部ストライキをしたらどうなります
河上肇の言葉。1919年、帝国教育会の夏期講習会で、河上は聴講者に向かって、「ちょっと声を低くして」、このように問うたという。大久保利謙のメモあるいは記憶による。大久保によれば、河上は、この例えによって、「ストの恐るべきこと」を暗示しようとしたらしい。ちなみに、「おわい屋」は、汚穢屋と書き、糞尿汲み取り人のことである。