◎「革命よりも戦争がまし」、「革命よりも敗戦がまし」の昭和史
昨日紹介した高木惣吉『連合艦隊始末記』(文藝春秋新社、一九四九)』の「政治・戦争・人」によれば、戦後になってから、岡田啓介元首相や及川古志郎元海相は、日本が戦争に突入したのは、「日本が二つに割れる」のを避けるためであり、やむをえなかったという感想を表明したという。これに対して同書の著者である高木惣吉は、明治初年における大久保利通の姿勢などを引きながら、たとえ内乱になったとしても対外戦争は避けるべきだった、と主張した。
高木の言葉には聞くべきものがあるが、ここで注意しなくてはならないのは、そのように主張する高木にしても、日本が戦争に突入したのは「日本が二つに割れる」のを避けようとする判断からだったという点に関しては、岡田元首相や及川海相と、共通の認識を持っていたということである。
では、この「日本が戦争に突入したのは、日本が二つに割れるのを避けようとする判断からだった」という認識を、最初に示したのは、あるいはそれを広めたのは誰だったのだろうか。
本日は、この問題に関し、重要なヒントになりそうな文章を、ひとつ紹介してみたい。
1 “戦争か平和か”の選択でなく
「開戦」(十二月八日)は、戦争(外戦)か革命(内戦)かの選択だった。戦争か平和かの選択ではなかった。「開戦」をめぐる選択と決定が、きわめて切迫した情勢の下でなされたことはいうまでもなく、したがって戦争の回避が平和の選択にはならず、内戦、ひいては革命の危機に直面することを意味していた。少なくもそう思われていた。こうして日本の支配層は“革命よりは戦争がまし”という形で「開戦」を選んだのである。[9]
[9]“革命よりは戦争がまし”という指摘は、日米開戦直後に書かれたヒュー・バイアスの「敵国日本」で述べられていた。彼は近衛内閣の時におこった「支那事変」について「それが不必要な戦争であることを近衛が知らぬはずがなかった。ただ彼は国内における反乱や革命にくらべては支那との戦争の方がまだましだと考えたのである」と書いている。バイアスはニューク・タイムス、ロンドン・タイムスの特派員として日本に二十八年間滞在し、開戦当時大部分のアメリカ人にとってほとんど未知の国、しかも敵国となった日本を紹介したその原本は、第一回交換船で日本に伝えられていた。彼は日本の軍事力の侮りがたい強大さをアメリカ人に警告すると共に、その致命的弱点をも的確に指摘している。それ故、この本は当然戦時下の禁制書目に入れられて一般の眼にふれることはなかった。ただ厳重な監視の網をくぐって一部が抄訳され、近衛や木戸ら有力者の間で回読されていた。やがてそれすらも憲兵隊の嗅ぎつけるところとなり、関係者は次々に逮捕、投獄されていった。戦後、雑誌『世界』は創刊号、第二号にその抄訳を掲載した。引用部はその第四章「誰が日本を動かすのか(つづき)」にある。(『世界』第二号、一九四六年二月、一七五ぺージ)
同じことは「敗戦」(八月十五日)にも当てはまる。それは革命(内戦)か敗戦かの選択だった。ここでも天皇を含む日本の戦争指導層は国体の護持を至上命令としたから、“革命よりは敗戦がまし”という形で「敗戦」を選んだ。天皇の命令によって戦いをやめる終戦によってなら、国体が維持される可能性はある。しかし、戦争を継続して本土決戦に突き進むことは、上陸米軍との戦闘もさることながら、その間に抗戦派と降伏派、日本人同志、日本軍同志の内戦をひきおこす。内戦と外戦が重なりあい、もつれ合って展開することはフランス革命にもロシア革命にも見られたところであり、われわれはバルザックの『シューアン党』やショーロホフの『静かなドン』などの文学作品にその様をまざまざと汲みとるここができる。この時、国体の護持は確実に不可能となり、それまでの支配層は全面的に崩壊して革命状況をもたらすことはあきらかだった。この懸念が彼らをして「敗戦」を選択させたのである。
それでは、二つの選択にこのような形をとらせた根因は何だったのか。外交は内政の延長という命題は不朽の真理である。それは外交だけでなく戦争にもあてはまって、十二月八日に戦争の回避を、八月十五日に戦争の継続を不可避にしたものこそ、当時の支配体制、つまり国体を支える支配構造そのものだった。
以上は、河原宏氏の『日本人の「戦争」』の第Ⅱ章の第一節である(全文)。ここではこれを、ユビキタ・スタジオ刊の新版(二〇〇八)から引用した。
ここで河原氏は、いくつか、きわめて重要なことを指摘している。
〇日本の対米開戦は、内戦を回避するためだった(革命よりも戦争がまし)。
〇同じく、日本の降服(敗戦)は、内戦を回避するためだった(革命よりも敗戦がまし)。
〇ヒュー・バイアスは、日米開戦直後に執筆された『敵国日本』(一九四二)の中で、支那事変という選択についても、同様のことが言えると指摘している。
〇バイアスの同書は、日本にも持ち込まれたが、禁制書目とされ、一般の眼に触れることはなかった。
〇しかし、同書は、近衛文麿や木戸幸一ら有力者の間で回読された。
十分な資料や考察を踏まえた上での判断ではないが、ここで、いくつかの仮説を示しておきたいと思う。
◇「日本が戦争に突入したのは、日本が二つに割れるのを避けようという判断が働いたからだった」という認識を、最初に示したのは、アメリカのジャーナリスト、ヒュー・バイアスであろう。ただし、バイアスがこの認識を示したのは、「支那事変」についてである。
◇日米開戦後、『敵国日本』の抄訳を読んだ「有力者」は、バイアスのこの認識を肯定せざるをえなかったであろう。
◇近衛文麿が『敵国日本』の抄訳を読んだというのが事実だとすれば、その影響は、近衛「上奏文」(一九四五年二月)の趣旨(革命よりも敗戦がまし)に及んでいる可能性がある。
◇戦後、雑誌『世界』によって、初めて『敵国日本』を読んだ政治家や軍人も、バイアスのこの認識を肯定せざるをえなかったであろう。
◇彼らは、バイアスが「支那事変」について示した認識を、日米開戦や日本の降服についても適用し、かつそのことをいろいろな形で表明していった。
なお、河原宏氏の『日本人の「戦争」』の原版は、一九九五年に築地書館から刊行されている。河原氏は、二〇一二年二月に亡くなられたが、同年一〇月、講談社学術文庫に、『日本人の「戦争」』が収められた。
今日のクイズ 2013・2・18
◎ヒュー・バイアスの『敵国日本』について正しいのはどれでしょうか。
1 1946年に雑誌『世界』が抄訳を紹介したが、その後は、翻訳などは一切あらわれていない。近いうちに、翻訳される予定もない。
2 2001年に、原書に基づいた新訳が刊行された。
3 雑誌『世界』に載った抄訳と原書に基づいた新訳とを併せたものが、近々、某文庫から刊行されることになっている。
【昨日のクイズの正解】 1 ダーダネルス海峡に面した半島の名前 ■ただし、ガリポリ半島は当時の呼称(英語)で、今日では、ゲリボル半島という(トルコ語)。
今日の名言 2013・2・18
◎外交は内政の延長という命題は不朽の真理である
河原宏の言葉。『日本人の「戦争」』より。ユビキタ・スタジオ版では、八八ページに出てくる。上記コラム参照。