◎近衛文麿は、それが不必要な戦争であることを知っていた
ヒュー・バイアスの『敵国日本』(一九四二)については、雑誌『世界』の創刊号(一九四六年一月)に掲載されたものの一部を、このコラムでも紹介した(今月一・二・五・六日)。しかし、創刊第二号に載ったものについては、まだ紹介していなかったので、本日は、その一部を紹介してみることにしたい。
以下は、「第四章 誰が日本を動かすのか(つづき)」の一部である。
五・一五事件を契機として青年将校が危険な革命的空気の中に包まれたと見るや、政府は外に対しては軍の提唱する政策――満洲に於ける軍事行動、国際連盟脱退、華府〔ワシントン〕条約破棄等を実行し、内に対しては穏健な非政党人たる総理大臣によつて素晴しく巧みなる無為無策の鎮静剤的政治を続けたのである。それだけでは内にナチ的改革の断行を慫慂し、外に対して侵略を主張して已まぬ不平分子を満足させることができなかつた。そして第二の更に一段と恐るべき二・二六事件、叛乱と暗殺の形を採つた事件が勃発した。近衛に総理大臣たるべき大命が降下した。彼は拝辞した。そして二度まで内閣が倒れるに及んで漸く首相の地位を受けたのである、彼が大命を拝辞したのは、先づ軍をしてその欲するところを行はしめた後でなければ国内安定は望むことができないと信じたからである。彼が内閣を組織した僅か数週間後に支那事変が勃発。それが不必要な戦争であることを近衛が知らないはずはなかつた。ただ彼は国内に於ける叛乱や革命に比べては支那との戦争の方がまだましだと考へたのである。それにはまた、北支の原野にヒンデンブルグのタンネンベルグ的殲滅的勝利を獲得して、支那事変を六ケ月で終了すべしという陸軍首脳部の保証もあつたのだ。かゝる期待が如何に幻滅のものであつたかは歴史が語る。一年後近衛は挂冠した〔官を辞した〕。が、その頃には最早政治とゴルフを趣味とした一人の私のない貴族としての彼の役割は永久に終つてゐた。軍を増長させた政策の破局は、日本を有史以来最大の危機に陥れてゐた。近衛は立憲政治最後の「切り札」であつた。されば軍が独逸との同盟とナチ的国内改革を慫慂するに及んで、近衛は再び首相の印綬を帯び再び軍の欲する所に従つた。ヒットラーが突如としてスターリンと結ぶや、日本も亦おくればせに逡巡した揚句、ヒットラーの後を追つた。ヒットラーが第二の不信義を敢行してソ連侵入の火蓋を切るや、近衛は独逸との同盟とソ連との中立条約を結んだ外相〔松岡洋右〕を更迭して、米国との交渉を始めた。この間、宮廷勢力が、松岡と過激なその一派の更迭に近衛と協力したことは、疑ひの余地がない。併しながら陸海軍が遂に対米戦争を決行する成算ありと決意するに及んでは、宮中も内閣も忽ち無力な存在になつてしまつた。陛下と、貴族総理大臣の弱いながらも長きに亘つた努力は、遂に蹂躙されてしまつた。陛下と近衛は独逸のウイルヘルム二世とベートマン・ホルウエッヒと相並んで、歴史に残ることゝなつたのである。
上記で、「外相を更迭」と言っているのは、事実上の更迭という意味であろう。周知のように、大日本帝国憲法では、首相が国務大臣を更迭することはできず、この時の近衛内閣は、一度総辞職をおこなうことによって、松岡洋右〈マツオカ・ヨウスケ〉外相を追い出した(一九四一年七月、第二次近衛内閣→第三次近衛内閣)。
ヒュー・バイアス『敵国日本』の紹介は、明日も続ける。
今日のクイズ 2013・2・19
◎ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世について、正しいのはどれでしょうか。
1 第一次世界大戦の末期に退位し、オランダに亡命した。
2 第一次大戦後、ワイマール共和国の発足にともなって退位した。
3 ナチス政権によって、皇帝の座を追われた。
【昨日のクイズの正解】 2 2001年に、原書に基づいた新訳が刊行された。■内山秀夫・増田修代訳『敵国日本―太平洋戦争時、アメリカは日本をどう見たか?』刀水書房、二〇〇一年刊。
今日の名言 2013・2・19
◎それが不必要な戦争であることを近衛が知らないはずはなかつた
ヒュー・バイアスの言葉。『敵国日本』(1942)に出てくる。「それ」とは「支那事変」のこと、近衛とは近衛文麿のことである。