◎「皆さん、敗戦は神意なり!」石原莞爾の戦後第一声
先月の八日・九日に終戦直後における石原莞爾の言動について紹介した。その際、「東亜連盟」という言葉について、解説しておく必要があると思ったが、信頼できる資料が見つからず、ついそのままになっていた。
たまたま、今月になって、早瀬利之氏の『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、二〇一三年二月一七日)という本が出たので、手にしてみた。これは、極東国際軍事裁判酒田法廷における証人尋問など、戦後における石原莞爾の言動を中心に紹介した本で、非常に読みやすく、また有益な本である。
終戦直後の石原が、東久邇宮稔彦と会談した話、東亜連盟の集会で大聴衆に向かって演説した話などは、当然出てくる(当時の新聞記事などの紹介はない)。また、「東亜連盟」についても、かなり詳しく説明されていて、勉強になった。
同書の六二~六五ページから引用してみよう。
軍を追われた石原は、立命館大学の教授に迎えられた。新しく「国防研究所」ができ所長となり、大学で国防論を講義した。雄弁な彼の講義は人気が高く、近くの京都大学の学生までが潜り込んで聴講していた。
また京都、大阪商工会議所、青年会など色々な所から講演を頼まれ、出かけて行った。その際、「私は恩給をいただいている身だから講演料はいただけない」と無料で講演した。
この立命館大教授のとき、石原は『国防論』を立命館大学出版部から出版した。この本はベストセラーとなり、国民を勇気づけた。ところが、東條は憲兵と特高を遣って「発禁処分」に出た。
また七月に中央公論社から出版した軍事学の著書『戦争史大観』も、出版元に圧力をかけて、出版差し止めに出た。ついには、立命館大学の中川小十郎〈ナカガワ・コジュウロウ〉総長に圧力をかけ、石原を退めさせた。昭和十六年九月は、海軍が真珠湾作戦を秘かに計画し、陸軍はマレー半島へ上陸する作戦を練って訓練していた頃である。石原は無職となり、京都にもいられなくなった。痛風の母親と妻の銻子と三人は京都を離れ、郷里の鶴岡に戻る。
東條の圧力は、石原が顧問をしている東亜連盟運動にまでのびた。この東亜連盟運動は、日本、満州、中国、朝鮮がアジア同盟を結び、互いに経済協力して繁栄しよう、というもので、アジア各地に支部があった。ただし「政治は独立し、互いに干渉しない」というのが、東亜連盟のスタンスである。本部は日本だが、満州は新京に、中国は南京に、朝鮮、インドシナ、タイにも支部があった。
東亜連盟協会は機関誌『東亜連盟』(月刊)を発行していて、南京では中国語に翻訳されていた。汪兆銘はレギュラー執筆者で、また重慶の蒋介石軍や毛沢東の中国共産党員たちにも読まれていた。周恩来も愛読者の一人で、戦後廃刊になったとき、残念がったという。
京都を追われた石原は郷里に戻ると、代議士の木村武雄、満州時代からの同志、和田勤、石原が作った満州建国大の教授である中山優〈ナカヤマ・マサル〉らと打ち合わせながら、本腰を入れて毎月論文を書き、また、講演録を速記させて『東亜連盟』に発表し続けた。
彼には常に憲兵と特高が、三六五日へばりついていた。京都にいたときは向いの民家を内緒に借りて常駐し、交替で石原及び石原を訪ねてくる者を見張った。鶴岡でも、近くに家を借りて、山形県特高課の刑事が、朝八時から見張った。講演先にも、その土地の特高がもぐり込んだ。
時には憲兵が、石原の玄関先に立つこともあった。名目上は「将軍を右翼から守るため」であったが、民間人となった石原を憲兵が見張るのもおかしい。
東亜連盟の集会について、同書には、一九四五年九月一九日、新庄において聴衆三万人という記述があるが(三七ページ)、典拠が明示されていないのは残念である。ちなみに、大熊信行の『戦争責任論』(唯人社、一九四八)には、「九月十二日新庄町公園広場にひらかれた東亜連盟県地区会員大会のために、やはり臨時列車が四本出されており、会衆一万五千」とある。いずれにしても、早瀬利之氏は、大熊の本は参照されていないのではないのだろうか。【この話、続く】
今日のクイズ 2013・2・21
◎石原莞爾の著書『世界最終戦争論』について、正しいものはどれでしょうか。
1 1940年に立命館出版部から発行されようとしたが、直前に圧力がかかって発行できなかった。事実上の発禁であるが、内務省よる発禁処分ではない。
2 1940年に立命館出版部から発行されたが、「安寧秩序妨害」の理由で発禁処分を受けた。
3 1940年に立命館出版部から発行された。内務省による発禁処分等はおこなわれなかった。
【昨日のクイズの正解】 2 宇垣一成〈ウガキ・カズシゲ〉 ■1937年に、組閣の大命を受けたが、陸軍の反対によって、大命を拝辞した。なお、この時、陸軍の反対運動の中心となったのは、石原莞爾大尉だったとされる。
今日の名言 2013・2・21
◎皆さん、敗戦は神意なり!
石原莞爾の言葉。1945年8月31日、東亜連盟宇都宮支部の集会における第一声。早瀬利之氏が、その著『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、2013)の70ページで紹介している。この言葉は、戦後における石原の文字通りの「第一声」だったという。