◎小野武夫博士、ハサウェイ女史と出会う
昨日の続きである。昨日、小野武夫博士の「青年良心と宗教問題―偉大なる伝道師を憶ふ―」という文章を紹介した(『新農村と青年問題』日光書院、一九四七、所収)。
この文章は、次の各節からなっている。
はじめに
第一節 ミス・ハサウェイ女史の郷家
第二節 始めて女史を知る
第三節 同仁教会とは
第四節 女史と自分
第五節 同仁教会の盛時
第六節 女史の永眠
余言
マリー・アグネ・ハサウェー女史を憶ふ
昨日は、このうちの第三節のはじめのほうを紹介したわけである。
順序は前後したが、本日は、第二節を紹介してみたい(ただし、その前半のみ)。
第二節 始めて女史を知る
私が同女史を始めて知つたのは、明治四十五年〔一九一二〕から大正三年〔一九一四〕に至る間、私が東京市麹町区飯田町四丁目に寓居せし頃、同地に在つた同仁教会Universalist churchに於てであつた。その頃同教会で聖書研究会(バイブル クラス)が開かれていたが、私もその研究会に入つて聖書を教へられた。その時の教師がハサウェー女史であつた。女史は前に記したやうに一千八百六十三年生れであるから、その頃既に五十歳を越えてゐたがまだ頗る〈スコブル〉若々しく見えた。我々会員は聖書と共に英語の賛美歌をも習つた。仲間には高文〔高等文官試験〕受験生などで単に英語を学ぶ方便のために出席する者もあつたが、私は英語聖書の研究に多大の感銘を覚えてゐた。手に入つた〔得意の〕教授法で聖句を説明されるハサウェー女史の人と為り〈ヒトトナリ〉に強く心を打たれ、熱心に女史の指導に従つた。当時女史が最も好んで謳はれた〈ウタワレタ〉賛美歌は“Sweet hour of prayer” であつて、今から三十有余年前のことであるけれども、銀鈴の如きその声は、女史が奏づる〈カナズル〉ピアノと共に今尚生ける聖者の声として静かに耳底〈ジテイ〉に残つてゐる。
その頃同仁教会々員は家庭祈祷会なるものを起し、毎月順番に会員の家庭を廻つて集りを催し、互に信仰を語り、聖書を輪読し、賛美歌を謳つて清き時間を過す〈スゴス〉を楽しい月例行事としてゐたが、その指導者はハサウェー女史であつた。その頃私は既に家庭を持ち、父となつてゐたが、ハサウェー先生の前では一介の書生であり、頑童であつた。それほど女史は我々の心を強く捉へてゐた。【以下は次回】
小野武夫博士が飯田町の同仁教会に通いはじめたのが、いつごろだったのか、いつごろまで通っていたのかは、ハッキリしない。参考までに、博士が生まれたのは、一八八三年(明治一六)、結婚したのは一九一〇年(明治四三)、長男が生れたのは一九一六年(大正五)である。