◎大川周明が語る北一輝・東条英機らの人物像
本日も、津久井龍雄が、大川周明を中津村の自邸自邸に訪ねたときに聞いた話。『右翼』(昭和書房、一九五二)二一三~二一五ページ。
東条と絶交の原因
博士〔大川周明〕の邸宅は厚木の在で、相模川を挾んで翠巒〈スイラン〉に対し、恰も〈アタカモ〉昔の陣屋か寺院のような建物で、しかも相当に宏壮である。ここで博士の禅味あふれる話をきいていると、全く敗戦も食糧難も忘れてしまって、座敷を渡る青嵐の中に満身ただ恍惚たる思いである。三月事件の話、北一輝〈イッキ〉への回想、東条と絶交したいきさつ、石原莞爾や中野正剛〈セイゴウ〉の批判、興味は津々として尽くべくもない。『三月事件なんていろいろのことをいうがねえ、要するにKがあんまり小心で、他人にばかり責任を持たせるようなことをするから、軍人仲間でうまくゆかなくなったのですよ。こんどの裁判〔東京裁判〕でもKは僕の乱心を幸いにいい加減な陳述をしているが、後になってそれが判っちやってね』と彼は笑った。
『洛陽の知己みな鬼となるで、知己や友人の多くがみな死んでしまったが、何といってもなつかしいのは北君です。北君は実に善悪の分別など母親の胎内へおき忘れてきた人で天衣無縫とれうのは彼の事でしよう。あるとき北君がひどく義理に外れた行為をしたので私が之を詰る〈ナジル〉ると、義理人情に拘泥して革命ができるかというから、僕は之を反駁〈ハンバク〉して、僕の革命は義理人情を回復するためにやるのだと言ったがねえ、どうも危っかしくて見ていられないことを平気でやる人だったですよ。世の中には神がかりはあるが北君は魔がかりだと僕がいってから、人が彼を魔王と呼ぶようになりました』
『東条と僕が交〈マジワリ〉を断った〈タッタ〉のは、僕の支那事変和平説に彼が耳を藉さなかったからです。別れるときはどちらも馬鹿野郎呼ばりをせんばかりでした。その後太平洋戦争になってから、人を介して意見をききたいというから、石原莞爾を大東亜大臣に、中野正剛を情報局総裁にしろといってやったが、とてもそんなことの出来る男じやないことは始めからわかっていました。中野君の自刃〈ジジン〉の理由はよくは知らんが、東条のやり方に憤慨したのと、それに自分が日独伊同盟を強硬に主張し、戦争開始に幾分の責任があったことを悔いる気持があったのではありませんか。宇垣内閣を作ろう、そしてお前も入閣しろと中野君と天野辰夫君に説かれたとき、僕は頽勢は宇垣を以てしてもいかんともすべからずとして断ったが、此の時説客としての天野辰夫君は実に大したもんだと感心しました』
以上が、「東条と絶交の原因」の全文である。
「三月事件」は、一九三一年(昭和六)三月に実行が計画されていたクーデター未遂事件。政治結社「桜会」(中心人物は、陸軍中佐の橋本欽五郎)、民間の大川周明、陸軍大臣の宇垣一成〈カズシゲ〉、陸軍軍務局長の小磯国昭らが関与。
文中の伏字Kは、小磯国昭のことであろう。当時、小磯は、宇垣一成と大川周明の間を往復して、連絡調整に当たっていた。明日は話題を変える。