礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小野武夫博士はどこの教会に属していたのか

2013-11-10 05:30:56 | 日記

◎小野武夫博士はどこの教会に属していたのか

 小野武夫博士の葬儀は、「簡素なる基督教式」によって営まれたという(一昨日のコラム参照)。
 小野武夫博士は、みずからのキリスト教信仰については、ほとんど語っていない。しかし、戦後の一九四七年(昭和二二)に上梓された『新農村と青年問題』(日光書院)には、それについて触れている文章がある。同書第二章「青年良心と宗教問題―偉大なる伝道師を憶ふ―」がそれである。
 もっとも、ここで博士が語っているのは、親しく指導を受けたアグネ・ハサウェイ女史のことなのであって、博士みずからの信仰については、ごく控え目に触れているにとどまる。このあたり、博士の人柄を髣髴させるものがある。
 アグネ・ハサウェイ女史は、アメリカ人で、ユニヴァサリスト教会の伝道師として日本にやってきた。その教会は、日本では「同仁教会」と呼ばれている。小野武夫博士は、東京・麹町にあった同仁教会で開かれていた聖書研究会に、明治末以降しばらく通っていたことがあり、ここでハサウェイ女史に出会い、キリスト教信仰に目覚めた模様である。
 小野武夫博士とハサウェイ女史の出会いや、その後の交流については、のちほど紹介することとし、話の順序としてまず、同仁教会について紹介しておきたい。これについては、小野武夫博士の「同仁教会とは」(第二章「青年良心と宗教問題」の第三節)をそのまま、引用させていただくことにする。

 第三節 同仁教会とは
 ハサウェー女史を語るには女史の属するユニヴァサリスト教会(邦訳同仁教会)のことを一応知つて置かねばならぬ。同仁教会がアメリカに起つた動機を聴くに、十八世紀末アメリカに於て旧神学派が余りに人間の罪の深刻さを説き、「永遠の罪」を強調するので、之に慊らぬ〈アキタラヌ〉一部の人々が、「救〈スクイ〉は普遍なり」と云ふ信条を以て独立し別派をたてたのである。即ち旧基督教派が極度の厳格さを以て人間の罪の恐しさを説き一般民衆が基督教に接近し難いのを見、その過厳性を緩和すべく「永遠の地獄」に代ふるに「普遍なる神の愛」を以てしたのであつて、ユニヴァサリストはこの普遍の愛を意味する言葉である。つまり自由神学による自由信仰を弘めようとするのであつた。併しユニヴァサリスト教派は最左翼教派のユニテリアン教会と共に、アメリカに於ける最も小さい教派に属した。そしてユニヴァサリスト派は実業界に、ユニテリアン派は知識階級間に比較的多くの信者を持つてゐた。
 米国ユニヴァサリスト伝道本部が日本に同教を宣布するために設けたのが同仁教会であつて、今の東京都麹町区三丁目の電車停留所付近に赤煉瓦建ての教会堂があつたのがそれであつた。之と同時にアメリカ伝道本部では小石川区雑司谷〈ゾウシガヤ〉町にブラックマーホームと云ふ瀟洒〈ショウシャ〉たる洋式建築を設立し、其処に女子(主として日本女子大学生徒)を収容監督してゐた。当時の東京朝日新聞記者米田実氏夫人和歌子さんなども一時この寮に居られたことがある。我がハサウェー女史が再度に来朝されてからはこの女子寮を監督することが主な任務であつた。日本女性に基督教教育を施す最初の手段として日本女子大の学生徒に着眼したのである。ブラックマーホームと云ふ名称の由来はアメリカ本国のさほど裕福でもないブラックマーと云ふユニヴァサリスト信者の一農夫が、死ぬ時に遺言して日本に於ける女子教育のための寮舎の建築費にとて若干金を寄付し、これによつて建設されたので、寄付物の芳名を記念するためにブラックマーホームと名づけられたのであると云ふ。このホームは今度の太平洋戦争中、強制疎開のために取り払はれて今はなくなつてゐる。【以下略】

 非常に要を得た説明であり、しかも、インターネット等では得られない貴重な情報に満ちている。次回は、小野武夫博士とハサウェイ女史の出会いについて。

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