礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

向島三部の稲垣浩は女形ではなかった

2013-11-17 06:10:45 | 日記

◎向島三部の稲垣浩は女形ではなかった

 昨日のコラムで、日活向島の『京屋襟店』(一九二二)について紹介した。この作品、および当時の日活向島撮影所については、津村秀夫も、その著書『映画の美』(光風館、一九四七)の中で言及している。
 当該部分を引用しておこう。

 日活向島の女形衰亡
 日活向島は大正九年〔一九二〇〕に向島三部を設けたが失敗し、十一年〔一九二二〕後半に至つて漸く田中栄三の傑作「京屋襟店」を出した。小栗武雄、東猛夫〈アズマ・タケオ〉等の女形が出演したが、尤もこの作は最後の女形映画といふ意味でも記念すべきものとなつた。この年の暮に衣笠〔貞之助〕、東、島田嘉七、新井淳、藤野秀夫等向島俳優の首脳の脱退したのを機会に女形の大半を整理し、舞台協会と提携するに至るのである。その第一回作は田中栄三の「髑髏の舞」であり、舞台協会の森英次郎、山田隆彌、岡田嘉子、夏川静江、佐佐木積〈ササキ・ツモル〉等の同志が参加した。次いで、田中は第三部俳優を使つて、「忘れな草」「三人妻」を発表、後者は〔尾崎〕紅葉の小説を映画化した力作であり、その他新進監督溝口健二は「霧の夜」「夜」等でその情緒的な作風が青島順一郎の撮影と共に異彩を放つた。鈴木謙作も「旅の女芸人」を発表した。かくて十二年〔一九二三〕における向島は漸次旧態を改め、松竹の攻勢に対抗すべく企業を積極化せんとする方針を採つた矢先に九月の大震災に逢ふわけである。
 なほ、この時代の向島三部の俳優は酒井米子〈ヨネコ〉、稲垣浩(現在大映監督)、葛城香一、沢村春子、鈴木歌子、南光明〈コウメイ〉、小泉嘉輔〈カスケ〉等であつたことを付記する。

 津村秀夫によれば、向島三部は、女優登場映画を製作するため、日活向島撮影所が一九一〇年(大正九)九月に創設したという。津村は、一部、二部の分担については触れていない。
 のちに、『無法松の一生』(大映、一九四三)等の傑作を世に送ることになる稲垣浩は、この向島三部に所属する俳優であった。つまり、稲垣浩は女形ではなかったということになる。

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