礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

溝口健二、「やとな」に剃刀で斬りつけられる

2013-11-18 04:28:37 | 日記

◎溝口健二、「やとな」に剃刀で斬りつけられる

 昨日のコラムで引用した文章の中に、「新進監督溝口健二」という言葉があった。溝口健二は、日本を代表する映画監督であるだけに、インターネット等で得られる情報も多い。彼が最初に監督した作品は、一九二三年(大正一二)の『愛に甦る日』(日活向島)だという。『霧の夜』や『夜』も、同年の作品である。
 溝口健二という監督は、若いころから女性関係のトラブルが多かったらしい。柏木隆法さんの『千本組始末記』(『千本組始末記』刊行会発行、平凡社発売、二〇一三)の二二三ページには、次のようにある。

 話を少し戻すと、〔笹井〕末三郎〈スエサブロウ〉が日活〔京都〕に入って間もないこところというから昭和二年〔一九二七〕の五月か六月のことであろう。永田雅一〈マサイチ〉神妙な顔つきで末三郎に相談を持ちかけたことがあった。永田の相談というのは彼の親友の溝口健二のことであった。
 溝口は二十四歳で日活向島撮影所の監督となり、関東大震災の直後、京都に移って引き続き監督業に専念していた。あるとき俳優の中野英治〈エイジ〉に誘われて行った、大阪の道頓堀筋にあったダンスホール〝パウリスタ〟で、女給をしていた嵯峨千枝子という元女優と知り合い、たちまち相思相愛の仲となった。ところが千枝子にはれっきとした夫がいた上に、その夫からの依頼で千枝子は神戸の大親分川瀬健二の預り人となっていたために厄介な問題へと発展しようとしていたのである。恋愛の自由に慣れ親しんだ戦後世代には想像もつかないことだが、当時は姦通罪が罷り通っていた時代である。その上、やくざが絡んでいたとなれば、どちらに転んでも溝口に助かる道はない。その危険は百も承知の上で中野の協力を得て、溝口は千枝子を京都へ連れ帰った。以後半年ほどは人目を忍んで蜜月の日々を送っていたが、やがて川瀬の親分にも知れるところとなり、川瀬は溝口ヘ直接会談を申し込んだのである。溝口が震え上がったことはいうまでもない。溝口は親友の畑本秋一〈ハタモト・シュウイチ〉に相談して、日活職員の対外的なトラブルを処理する庶務課の永田に協力を求めたことから溝口の不倫が表面化した。
 溝口には、その前にも女性とトラブルがあり、〔京都〕木屋町〈キヤマチ〉のやとな一條百合子に剃刀で背中を斬られたことがある。恋愛は自由というものの溝口の場合は性懲りもないというのが大方の見方であった。何にしても法的な解決が望めない状態にあって、あえて火中の栗を拾おうとする永田の決心もなみなみならぬものがあったろう。

 この話の続きが気になった方は、ぜひ、柏木さんの本に当たっていただきたい。
 なお、引用文中、「やとな」の三文字には傍点があった。「やとな」は関西の言葉で、「雇い女」の略称だとされる。宴席で仲居と芸者を兼ねるような仕事をしていた女性を指すという。ウィキペディアの「溝口健二」の項には、「1925年(大正14年)『赤い夕日に照らされて』を撮影中に痴話喧嘩のもつれから、恋人であり同棲中の雇女(別れた後、貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で斬られるという事件」があったとある。ここでいう「雇女」が「やとな」のことである。ただし、この項の執筆者は、「雇女」の意味について、注記しておくべきだったと思う。

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