◎小野武夫、祖父・重五郎の一生を語る
一昨日、昨日と、入交好脩〈イリマジリ・ヨシノブ〉が書いた「小野武夫先生の思い出」という追悼文を紹介した。
その後半部分(昨日紹介)に、小野武夫が、その著書『農民経済史研究』(厳松堂書店、一九二四)の巻頭に、祖父への献辞とその回顧録を掲げていることが紹介されていた。
早速、国会図書館の近代デジタルライブラリーで同書を閲覧してみた。
「本扉〈ホントビラ〉」(国会図書館の用語では「内表紙〈ウチビョウシ〉」)をめくると、口絵がある。白黒の写真で、木内熊次郎という人物の肖像画である。
口絵をめくると、祖父に対する献辞。この文章は、入交好脩も引用していたが、再度引用しておこう。
其一生を農夫にて終りし祖
父重五郎の在りし昔を偲び、
謹みて此著を其奥城に捧ぐ
改行は原文のまま。ページ中央に、この三行があって、四角い線にかこまれている。
その裏ページに、「顧望三十年」という文章がある。これは、非常に細かい活字で組まれ、これも、そのページの中央に置かれている。以下にそれを紹介してみよう。
顧望三十年
彼は生れながらの農夫であつた、又生れながらの樵夫であり、漁夫であつた。其幼時、私が暁の夢を祖母の懐の裡〈ウチ〉に貪つてゐる時に、彼は既に床を離れて牛の「ハミ」を刻んでゐた、藁をじよきじよきと切る朝まだきの労営の響は今でも私に床しい〈ユカシイ〉幼な心の懐憶を与える。彼は又つゝましやかに林中の木の切り株を二日も三日もかゝつて掘り採り、其れを持帰つて家中〈イエジュウ〉の燃料に供した。此の切り株はよく燃えるとて年若の母は嬉しがつてゐた。又村が豊後一の大野川の沿ふて居つたから――私の村を川辺村と云ふのは、此川のほとりに在る村だからであらう――彼は農閑あればいつも此川に行つて魚を捕つたが、彼の特技とする処は鰻のたこ釣と、「ウケ」つけであつた。冬の寒い朝「ウケ」をあけて幾尾かの鮮魚を「シタメ」に入れ、此を提げて〈サゲテ〉家路を急ぐ老漁夫の頬冠り〈ホッカブリ〉姿が今も尚私の眼前に髣髴〈ホウフツ〉する。七十六歳の春を一期〈イチゴ〉として彼は此世を去つたのであるが、其臨終は野から藁を牛の背に積んで帰る途中に斃れた〈タオレタ〉のである、隣りのおかみさんに負はれて帰つた彼は言語不通の儘三日目にして往生を遂げた。彼逝いて既に十八年、逝きし日の甘へ坊も今や二曾孫の父として鬢髪〈ビンパツ〉漸く白からんとする。文字を解せざるも記憶に富み、辛抱強くして労苦を厭はぬ彼は最〈モットモ〉早く軟かな私の頭に百姓の児たる素質と気前とを与へてくれた。彼を追憶することにより私は強い歩みの力と、心の潤ひ味〈ウルオイミ〉とを覚ゆる、斯くて素朴なる彼が幻影を追ふことの出来る間、私は来らん幾春秋の日を安らかに送るを得るであらふ。
独得の味わいがあって、胸を打つ。典型的な名文とは違うが、やはり一種の名文と呼ぶべきであろう。
ちなみに、文中にある「二曾孫の父」とは、小野武夫自身を指す。当時、小野武夫は、祖父・重五郎から見て「曾孫」(ひまご)に当たる、二児の父になっていた。