◎小原敬士、ゼクテ論文を紹介(1947)
先週の木曜日だったか、神保町にある某書店の二冊百円の棚から、小原敬士『アメリカ資本主義の分析』(東洋経済新報社、一九四七)を拾い出した。ニューディール政策のことが書いてあったからである。昨日、改めて読んでみると、マックス・ウェーバーの理論について意外に詳しく解説しており、いわゆるゼクテ論文『プロテスタンティズムの教派と資本主義の精神』(Die protestantischen Sekten und der Geist des Kapitalismus)にも言及していた。当然といえば当然なのだが、この時点では、この論文の邦訳は、まだ出ていなかったと思う。だとすれば、ゼクテ論文の紹介としては、比較的早い時期のものだったことになる。
少し、引用してみよう(二六~三一ページ)。
これは皆様も略略〈ホボ〉御承知の通り、イギリスからアメリカへ渡つた例のピューリタン(清教徒)が大体中心になつたと考へて差支へないと思ひます。宗教的にはピューリタンであり、経済的にはイギリスの富農ヨーマンの系統を引いた中産階級であるといふことが出来るのであります。一六二〇年に百二十人の者がメイフラワー号に乗つてアメリカに渡つたのが初めでありますが、その後チャールス一世治下のとき、イギリス本国において、いはゆるアングリカン、つまりカトリックに比較的近い反動的な宗教的勢力を得た時に、ピューリタンは非常な迫害を受けてアメリカに渡つたのであります。ピューリタンの国外流出と呼ばれてゐるのがこれであります。この間に約二万人位のピューリタンがアメリカに渡つたのであります。そして、このやうな清教主義の宗教的信仰を持つてゐた者が北部植民地の中核となり、更に延いては〈ヒイテハ〉アメリカの近代主義の担ひ手となり、推進力となつたと考へられるのであります。この点につきましてわれわれはマックス・ウェーバーの資本主義精神についての有名な研究、いまでは、世界の学界において普く〈アマネク〉承認されてゐる一つの考へ方について此処でもふれて見ないわけにはいかないのであります。この点については、参考文献の第二のところに梶山力氏の翻訳を掲げて置きましたから詳しいことはそれにつき、その他東大の大塚久雄助教授が最近方々〈ホウボウ〉に発表されてゐるものについて御覧を願ひたいと思ふのであります。マックス・ウェーバーは、中世カトリックに対立してゐたプロテスタントが独特の神観や信仰を持つてをり、それから亦やはり独特の職業倫理なるものを抱くやうになり、それが近代的資本本主義の精神を形作つたのであるといふことを主としてイギリスや大陸の実例についていろいろ述べてゐるのであります。ところがその同じマックス・ウェーバーが一九〇四年にアメリカヘ渡りまして、アメリカのいろいろの資本主義的の発展を見聞し、多くの文献について研究した結果、参考文献に挙げました「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とほゞ同時に即ち、一九〇六年に「プロテスタント教団と資本主義の精神」という論文を発表致しました。その中でアメリカにおける資本主義の精神をマックス・ウェーバーは解釈してをりまして非常に興味があります。
念のために申上げて置きますが、プロテスタントの宗教観はカトリックの宗教観に対立するわけであります。カトリックは教会を非常に重要視して、教会に入らなければ神から救はれない、「教会の外に救済なし」といふスローガンを掲げてをります。これに対してマルティン・ルッターの宗教革命から始つたプロテスタントでは教会ではなくして、神と個人との直接の交通といふこと、個人主義的な唯神論、バイブルを非常に重要視する聖典主義――さういふ思想を展開したのであります。カトリックにおいては教会に入ること、若くは〈モシクハ〉修道院に入つて現世を捨てることが神によつて救はれる道である。例の免罪符といふことがそれでありまして、あれはいはゞ天国への入場券なのですが、教会の僧正が天国への入場のいはゞ権利を握つてゐるのでありまして、それを分けて貰ふのが免罪符であります。プロテスタントにおいてはさうでなく、このやうな教会を媒介とせずに個人的に神に接触することによつて救済を受けるといふのであります。従つて教会に入るとか、修道院に入るとかいふ遁世禁慾といふものは必要ではないのでありまして、世俗的な活動を行つたまゝ神の国に入ることが出来る。単に世俗的な職業を持つといふことではなしに、むしろ積極的に世俗的職業に精進をする、努力勤勉をするといふこと、これが神の道に入る最も近道であるといふやうに考へ、これを内面的な禁慾と呼んでゐるのであります。でありますから職業といふものは英語のコーリング、ドイツ語のベルーフといふ言葉が示すやうに神が召し命じたものである。そこにおいて農業であれ工業であれ、何であれ世俗的な職業を凡て一つの宗教的な義務として考へる思想が生れて来たのであります。斯様に職業活動を単純な営利活動としてではなくして、宗教的な義務として全面的に肯崖するイデオロギーがこゝに与へられ、これが所謂「資本主義の精神」に通ずるものであります。そしてマックス・ウェーバーが見たところによりますと、このやうな職業倫理はアメリカにおいて極めて明瞭に典型的な形で現れてゐるといふのであります。
アメリカでは教会よりもセクト、つまり教派又は教団といふものが非常に主要視されてをりました。教会には生れながらにして、それに属すべき義務があるが、セクトには人が意識的にこれに参加するところの、いはゞヴォランタリ・アソシエーションであります。アメリカでは、現在でもいろいろなクラブ組織が非常に発達してをります。あのクラブはプロテスタント・セクトの世俗的な形態であるとウェーバーは考へるのでありますが、そのセクトに入り、一種の宗教的思想による職業倫理をもつといふことが初期のアメリカ植民者の一つの共通の考へ方てありました。マックス・ウェーバーはその論文〔ゼクテ論文〕の中に自分の見聞を披歴してをりますが、例へばオハイオの耳鼻咽喉科の医者さんの話によると、バプチストの患者が来た時、手術の途中に「私はバプチストであるから支払ひは御心配なく」といつたといふのであります。またバプチストの洗礼の式の時、それを見てゐた他の男が、「あの男は近く銀行業を始めようと思ふから洗礼を受けてゐるのだ」といつた。つまりバプチストであるといふことは一つの社会的信用の照明になるといふ実例を挙げてゐるのであります。マックス・ウェーバーの言葉によると、かういふ新教セクトこそがカトリツク教会に対する最も徹底的なアンチテーゼである。従つてアメリカにおいては近代的な資本主義が最も典型的に現れてゐるといつてゐるのであります。さういふ資本主義の精神の内容はいはゆる市民的な美徳として現れ、その中には正義、勤勉、節約等の徳目が数へられてゐるのでありまして、例のフランクリンが「若い商人に対する忠告」といふ本の中でかういふことをしきりに勧め、「時は金なり」といふ、われわれが非常に卑俗に使つてゐる思想もその中に現れてゐるのであります。【後略】