◎大衆は好きな大衆小説をえらび他を捨てる(鶴見俊輔)
昨日の続きである。鶴見俊輔さんの『大衆芸術』(河出新書、一九五四)から、「大衆小説について」というエッセイを紹介している。本日は、その二回目。同エッセイは、一、二、三の三節からなるが、本日、紹介するのは、二の後半。文中、傍点が施されている部分は、下線で代用する。
大衆小説とは、大資本を持つ出版社が、一種類の小説本を大量生産して一般大衆に買わせようとして売り出すものだ。大衆小説の作者は、其処をこゝろえていて、なるべく資本家がもうけられるようにと工夫しなければ、その本を出版してもらえない。こんな風にして、たくさん売れるということを前提として作られる大衆小説は、売ろうとする者の意志、資本家の意志に強く統制されることゝなる。したがって、大衆小説の代表する思想は、大資本家および支配階級が、大衆にかく信じて欲しいという思想なのであって、大衆自身の思想を代表していない。大衆小説の思想的意義は、徐々に明確になりつゝある勤労階級の階級的自覚をいかにして少しでも長く効果的に阻むかにある。
けれども、なるほど大衆は、今の社会秩序によってゆがめられているとはいうものゝ、やはりゆがめられたなりに、自らの選択によって、好きな型の大衆小説をえらび、他を捨てるのである。大資本家のさし出す大衆小説を一々うのみにするのではない。資本家自身でさえも、大衆の好みを確実に知ろうとして、自分の会社の内部に調査部を設けたり、世論調査所に依頼したりして、大衆の反響の計測に大童〈オオワラワ〉である。資本家のさし出す大衆小論が、大衆によって蹶られる〔ママ〕ということもよくある。
こんな風に、大衆小説は、二重の性格をもっている。資本家の意志を代表しているという意味では、大衆小説は、広告に最も良く似た芸術形式である。それは、資本家の意志を大衆におしつけようとする。大衆の持つある種の要求だけを無理矢理に拡大して、自らの大量生産する作品を買わせようとする。それに、大衆の要求をねじまげて、自分に都合のよいような形においてその均一化・固定化を計ろうとする。しかし、その広告性ととなりあわせて、大衆性というものがある。吉屋信子の小説中の女主人公だとか、吉川英治の時代物中の英雄たちは、今日の日本の大衆の心中に生きている理想人間像であって、「いかに生くべきか」について思索する時の尺度として現に用いられているのだ。大衆小説は、現実というものをその物質的詳細においては正しく反映していない。主人公のくらしている家の家賃がいくらだとか、商売にどんな道具を使っているとか、どんな契約書をとりかわしたかなどというのは、面倒くさいから省いてしまう。かくて物質的詳細については実に簡略に描かれた背景の前に、理想的人間像が大きくでんとすえられ、いかに生くぺきかという哲学的問題を、行動的かつ会話的に扱うのだ。だから大衆小説は、日本の大衆の生活を正しく反映しているものではないけれど、日本の大衆のもつ哲学思想とはかなり強く結びついている。こういう面で、大衆小説のもっている大衆性は、同じく大衆小説のもっている広告性によってある程度くわれてしまっているわけだけれども、全くなくなるという状態には未だきていない。