礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

万民を刺し殺し、老人弱子を無きものにし、国の重宝を奪う

2015-09-18 03:55:06 | コラムと名言

◎万民を刺し殺し、老人弱子を無きものにし、国の重宝を奪う

 本日も、『墨子』の「非攻」論(反戦論)の紹介することにしよう。引用は、野村岳陽訳著『現代語訳 墨子・揚子』(坂東書院、一九三〇)から。かな遣いと漢字は、現代風に直した。句読点の位置は原文のまま。ただし、テンをマルに変えたところがある。

 非攻 下
 墨子説いていう。今、天下の人が善いことだといって、誉めることを、何のために誉めるかとたずねてみる。それは、上は上帝の利にあたり、中は鬼神の利にあたり、下は人間の利にあたるために誉めるのであろうか。それとも、その反対なるがために誉めるのであろうか。下愚の人でも、必ずそれは、上帝、鬼神、人間の利にあたるから誉めるのであるというのであろう。天下の人は、同じく皆、聖王の法を義としてたっとんでいる。而して、諸侯の大部分は、皆やはり、攻伐、兼併の不義に浮身をやつしている。これは、諸侯に、義を誉めるという空名〈クウメイ〉はあっても、まだその実体の如何なるものかを解せざるものである。これを譬えてみると、盲人が、人なみに、白黒の名だけは口にいうても、その実物を弁別することができないようものだ。即ち諸侯には、義と不義との区別はつかないである。
 さて、昔、天下のために謀〈ハカリゴト〉を廻らした知者たちは、必ず、義といふものを深く考察して、それから、それを実行した、そこで、その一挙一動は、遅疑凝滞〈チギギョウタイ〉なく、事は遠近となく、皆欲するがままに成就して、天帝、鬼神、人民の利に応じたものである。これがすなわち知者の道である。またいにしえ仁人〈ジンジン〉の天下をもった者は、必ず、大国が、力をたのんで、あい攻伐する考えとは正反対に、天下の融和統一をはかって、全世界をひとまとめとし、ここに天下の万民を率いて、厚く上帝、山川、鬼神に臣事し、人を利することも多ければ、功もしたがって大きかった。そこで、天はこれを賞し、鬼神はこれを富まし、人はこれを誉め、遂に、たっときことは天子たり。富は天下をもち、名は天地と参って、今日に至るまで朽ちない、これは仁者の道で、先王の天下を治めた方法は、このほかにないのである。
 今の王公大人、天下の諸侯は、この方法によらない。彼らは皆、爪牙〈ソウガ〉の士を選び、水軍や車戦の隊を揃え、それから堅甲、利兵をととのえて、罪もない国を攻めに往く。その辺境に侵入し、五穀を刈り取り、樹木を斬り倒し、城廓を壌しては溝池をうめ、犠牲をとったり殺したり、祖廟〈ソビョウ〉を焼き払い、万民を刺し殺し、老人弱子を無きものにし、国の重宝を奪い、それにあきたらずしてさらに進んで戦闘を続ける。そして兵隊には、命を奉じ、進んで身を捨てる者は上、多く敵を殺す者はこれに次ぎ、負傷するまで戦う者は最下であろう。まして、隊伍を乱したり、背を敵に向けるような者は死罪に処して、決して容赦しないなどと厳命して、軍隊をおどす。一体、人の国を兼併〈ケンペイ〉し、軍隊を覆滅し、人民を損傷虐待して、聖人の事業を乱る〈ミダル〉者は、上帝を利することができるであろうか。天の人を取って、それで、天の邑〈ムラ〉を攻め、天民を刺殺し、神位を剥ぎ、土神や穀神の宮殿をひッくり返して、その犠牲をつぶすというのは、これすなわち、これを上にして、天の利にあたらないものではないか。しからば次に、鬼神を利することができるであらうか。この人類を殺し、鬼神の祭主たるその子孫を減じ、万民はその虐待と殺傷から、四方に奔走離散する。これすなわち、これを中にして、鬼神の利にあたらないものではないか。しからば人類を利することができるかどうか。人を殺すことが、人類を利することの薄いのは勿論のことで、かつ戦争の費用を計算してみると、人類生活の根本を害し、天下人民の財用をつくすことは莫大である。これすなわち、これれを下にしては、人類の利にあたらないものではないか。【以下、次回】

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