◎広津和郎と宇野浩二、そろって仙台高裁へ(1953)
昨日の続きである。宇野浩二の文章「納得ゆかぬ『松川事件』」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。出典は、『中央公論』一九五八年緊急増刊(同年一一月)「松川事件特別号」である。
昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のようにある。
さて、私は、かういふ事を知つてからは、この誰かがやつた(といふより)敢行したにちがひない「列車顛覆」のために、極悪の災難に遭つた人たちが気の毒で気の毒でたまらない気がしたので、その時分、一と月の間に何度か遇ふ広津に、その事をときどき話した。
すると、広津は、もとより、かういふ事には人なみ以上に(私などとは比較にならないほど)関心をもつ人であり、あの『真実は壁を透して』なども読んでゐたので、私の云つた話に殆んどことごとく同感した。さうして、それからは、広津と逢ふたびに、しばしば「松川事件」の話が出た。(「一審は、無罪を信じきってゐた被告たちが魂【たま】げて悲歎にくれるほどひどいものであつたが、‥‥こんどは、‥‥二十人のうちで誰か一人が無罪になれば、みな無罪になる、といふやうな‥‥」と、(まだいろいろな『カラクリ』がある事を知らなかつたので、)いふやうな問答をした。)
さて、四月の初め頃であつたか、『週刊サンケイ』の催しで開かれて、広津と私が招かれた時、その座談会がをはつた頃、広津が、『週刊サンケイ』の編輯者の吉岡達夫と、部屋の片隅の方で、〔一九五三年〕五月七日に仙台の高等裁判所で、「松川事件」の何回目かの弁護士の弁論があるさうだから、それを聞きに、‥‥といふやうな話をしてゐたのが聞こえたので、私は、「弁護士の弁論も聞きたいし、裁判所も一ぺん見たいから、僕も一しよに行きたいな、」と云つた。
さうして、私は、五月の七日【なぬか】の午後、広津たちと一しよに、仙台の高等裁判所で、「松川事件」の第何回目かの公判を、傍聴した。さて、私は、法廷の後【うしろ】の廊下をあるいてゐる間も、ききに引いた亀井〔勝一郎〕の文章の中の、新聞の大きな活字に出てゐた「虚偽をも事実化してしまふ」記事を、一般の多くの読者その他とおなじやうに、信じさせられてゐた上に、二十人の被告のうちで、一ばん先きに虚偽の自白をさせられたと云ふ『赤間』という少年の名が妙に悪い人の名のやうに何か気味のわるい感じがしたので、この法廷の中はさぞ陰惨な空気に充ち満ち、被告たちも定めし暗い陰気な顔をしてゐるであらう、と想像したのであつた。
ところが、法廷にはひり、傍聴席についてみると、法廷には重苦しい空気などは殆んどなく、傍聴席の細長い腰掛けから三列ほど前に、おなじ細長い腰かけに腰をかけてゐる被告たちも、暗い影などは殆ど見られず、かへつて顔などは明かるい感じがした。
この光景は、私には、まつたく意外であつた。
きて、その傍聴席について暫くしてから、私は、それらの被告たちの挙動や顔つきを見てゐるうちに、「これは、違ふ、‥‥この人たちは、あの新聞に仰仰しく伝へられたやうな事は、やりさうにないし、やれさうにない」と思つた。
これから、簡単に書くと、私は、この裁判を傍聴してから、「松川事件」のことを出来るだけくはしく調べて、これを随筆風な小説のやうな形で書きたい、と考へた。さうして、広津は、おなじ事を、『真実は訴へる』といふ題で、私のやうな物語風ではなく、あくまで理論的に書くことにした。さうして、私のは『文芸春秋』に載せることにし、広津の評論は『中央公論』に出すことになつた。さうして、私が、関心をもちながらも、その後、この事件について、二つの文章を書いただけであるのに、広津は、比【たぐ】ひ稀【まれ】な情熱をもつて、周知のとほり、それを『中央公論』に四年も書きつづけたのである。
後記―この文章は、私が文筆生活をはじめてから、「初めて」と云つてよいほど、一日半ぐらゐの時間で書かされた。それから、.私が、編輯者のすすめもあつたが、かつて書いた『世にも不思議な物語』と『当て事と褌』の中に述べた事をこの文章に使はねばならなかつた事は、実にイヤでたまらなかつた。――この事だけは書いておく。
昨日も述べたように、この裁判の不当性に気づいたのは、広津和郎よりは、宇野浩二のほうが先だったと思われるフシがある。しかし、『週刊サンケイ』の座談会の時点では、すでに、広津のほうが、事件に対する関心が強く、事件への理解も進んでいる状態になっていたようだ。だからこそ編輯者の吉岡達夫は、座談会のあと、広津ひとりをつかまえ、仙台に傍聴にゆく相談を始めたのであろう。
見ていた宇野としては、面白くない。話に割り込み、「僕も一しよに行きたいな」と言った。――おそらく、こんなところだったのであろう。
ところで、上記の宇野の文章であるが、あまり良い文章とはおもえない。どちらかというと悪文である。いかにも宇野らしく、神経が張りつめられた文章だが、神経がゆきとどいた文章とはほど遠い。
文中、「この誰かがやつた(といふより)敢行したにちがひない」とある部分は、「この誰かがやつた(といふより敢行した)にちがひない」とすべきだったと思う。また、カッコに中に、さらにカッコがあるところがあるが、これも感心しない。推敲の余裕がなかったことを物語っている。
このことは、宇野も気にしていたらしく、「後記」に、「一日半ぐらゐの時間で書かされた」などと弁解している。こういうところも、いかにも宇野浩二らしい。