礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

松川事件と宇野浩二

2015-09-29 07:24:42 | コラムと名言

◎松川事件と宇野浩二

 松川事件に関わった文学者として、誰でもが思い浮かべるのは、広津和郎〈ヒロツ・カズオ〉の名前である。しかし、もうひとり忘れてならないのは、「小説の鬼」宇野浩二である。宇野浩二は広津和郎と親しかった。このふたりは、ほぼ同時に、松川事件に関心を持ちはじめた。つまり、その裁判の不当性に気づいた。この裁判の不当性に気づいたのは、どちらかと言えば、宇野のほうが先だった。宇野が先に気づき、それを広津に説いた、と思われるフシがある。
 このふたりは、『週刊サンケイ』の記者・吉岡達夫に誘われ、一九五三年(昭和二八)五月七日に、わざわざ仙台まで行って、仙台高裁でおこなわれていた控訴審を傍聴している。広津和郎が、本格的にこの事件に取り組むようになったのは、この傍聴がキッカケであった。
 本日は、宇野浩二の文章「納得ゆかぬ『松川事件』」を、紹介してみたい。出典は、『中央公論』一九五八年緊急増刊(同年一一月)「松川事件特別号」である。

 納得ゆかぬ「松川事件」  宇野浩二 (作家)
 私がはじめて「松川事件」といふものに関心を持つたのは、昭和二十八年の一月の初め頃に、『世界』の二月号に出た『松川事件をめぐつて』といふ記事を読んだ時からであつた。それには、「その頃から三年あまり前(昭和二十四年の八月十七日)の午前三時すぎに、東北本線の、青森発のぼり上野ゆきの旅客列車が、金谷川と松川の間(松川駅にいくらか近い方)で、脱線して、顛覆した事件がおこつた、その当時は、三鷹事件、下山事件、その他とともに、大方の人びとを聳動〈ショウドウ〉し、世間でもかなり大騒ぎをしたけれど、今日では、この事件は多くの人びとに殆んど忘れられてゐる、が、一部の人たちは、この事件のその後の成り行きを注目し、この事件の重大な意味を知つて、この事件を痛ましい目をもつて見まもり、この事件が国際的にもな政治的な意味が絡んで広大な反響がまきおこつてゐるのに、大ていの人は、この事件がおこつてから一と月あるひは一と月半あるいは二月も後【のち】に共産主義者を中心とする国鉄労働者組合員と芝浦労働者組合員を十人づつ(都合二十人)を検挙し、第一審の判決によつて、五人の被告が死刑を宣せられ、十五人の被告が重罪として生涯の長い年月を獄中に過ごさねばならなくなつた、――といふ事をはつきり記憶してゐる人は案外少ないのではないかと思はれる、」といふ意味のことが書かれてあつた。
『松川事件をめぐつて』の中のここのところを読んで、私は、自分も亦、「はつきり記憶して」ゐない者の一人である、と気がつくとともに、好奇心もいくらかてつだつて、おなじ『世界』に出てゐた海野普吉の『松川事件から受けた教訓』を読み、それから四五日ほど後、『真実は壁を透して』を読んで、まづ、「はてな、‥‥これは、をかしいな、」と感じ、それから、これは、もし本当とすれば、世にも悲しく恐るべき事件である、と思ったのである。
 さうして、私は、この松川事件の二十人の被疑者の手記がまとめられてある『真実は壁を透して』を読んでから、あの奇妙な顛覆事件があったと報ぜられた時分に、あるひは、それから後に、東京の幾つかの大新聞と称せられてゐる新聞に、松川事件で起訴された人たちは、どうもあの列車の顛覆を、共謀して、企てたらしい、と、実【まこと】しやかに書き立てたのを読んでも、どうしても信じられなかつた。さうして、あの実しやかに書かれた事を、一般の人が、(私もその一人、)信じたにちがひないと考へて、めつたに腹をたてたことのない私も、殆んどあらゆる『新聞』に対して、大いに腹をたてた。(「‥‥新聞といふものはおそろしいものである。大きな活字によるくりかへしは、虚偽をも事実化してしまふ。新聞に書かれないどれほどの多くの秘密があるか。その真実を知ること今日【こんにち】ほど困難なことはない。」と、さすがに、亀井勝一郎は、『現代の悪夢』といふ文章の中で、その頃の新聞について、巧みに、述べてゐる。)【以下、次回】

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