◎青木茂雄「記憶をさかのぼる」その6
昨日に続いて、青木茂雄氏の「自伝」を紹介する。本日、紹介するのは、「わたしの幼少期(6)」と題する文章で、「小学校に入学した」という見出しがある。
記憶をさかのぼる 青木茂雄
わたしの幼少期(6)
小学校に入学した
昭和29年4月に私は水戸市立新荘小学校に入学した。昭和29年という年は、いろいろな点で私にとって思い出すことの多い節目の年である。まず、映画好きの私としては、黒澤明の「七人の侍」が公開された年として、また「ゴジラ」第一作の公開年でもあった。「二十四の瞳」や「浮雲」など名だたる名作が公開された年でもあった。これらの作品をその当時見たのではない。ずっと後になってから観て、その後も何度も何度も観ているのだが、そのたびに昭和29年という年を思い出す。
教育二法成立、自衛隊発足、ビキニ水爆実験…、その後の政治的反動の原点となった年、つまり当時の言葉で言えば「逆コース」の年にあたるが、この当時の私の記憶のどこをどうとっても、そういう情勢と自分の記憶との接点を見いだすことはできない。当然だが。
入学式の時のことはまったく憶えていない。1年生のときの担任は二十代の若い女性教師であった。学級は1年8組。1学年は9クラスあったように記憶している。1学級の児童の数は記憶では50人以上はいたと思うのだが、当時の集合写真で確認すると45人だった。その後、学年が上がると50人以上に増えている。なにしろ大所帯であった。
手元に残っているのが入学式の日とその後1カ月後の市内の偕楽園までの「小遠足」の時の集合写真である。ハレの日だからなのか、皆それぞれに着飾っている。私もその着飾った一人なのだが、写真の顔は妙に大人っぽく、そして周囲となじんでいなかった。こういう固い表情は4年生のころまで続いている。
小学校の低学年のころは、私は学校で何を勉強したのかという記憶はまったく残っていない。それよりも、休み時間などの学級の騒がしさ。皆、学校にいろいろな遊び道具をもってきた、毎年2月に偕楽園で行われる“観梅”の日の翌日などはとくにそうだった。その日は各種の駄菓子や遊び道具が露店で販売される日だった。
この頃は、身体的な大きさ、自己主張する力、運動能力の高低が幅を効かす時期である。どちらかというと病気がちで欠席も多かったし、運動能力に劣る私などは片隅で小さくなっているほかはなかったのかもしれない…。今と違って、「学力」などという観念が多少とも幅を効かし、注目されるようになるのが、小学校高学年になってようやくである。いずれにしても、この時期についての私の記憶は、かすかなイメージを除けば、ほとんどない。
この当時の水戸市立新荘小学校の校舎や教室について、憶えていることを書いて、私の「幼少期」についての回想を一旦閉じたい。
新荘小学校は北側、新屋敷に面したところに通用門があり、狭い門を通ると左手に大きな桜の木があり、右手には確か「二宮金次郎」のコンクリート製の像があった。いちばん一般的な薪負い読書の像である。多分その近くに教育勅語等の「奉安殿」がかつてはあったのだろうが、その頃はもうなかったと記憶している。
さらに入ると、右手に「小使いさん」の居室があって、高齢の「小使いさん」が寝泊まりしていた。その居室の近くが渡り廊下になっていて、その奥の左手に大きな給食の調理室があった。
校舎は校庭運動場の周囲を南向きにコの字型に木造2階建の校舎が取り囲んでいた。校庭は上と下の2つに区切られていて、下の部分が戦後に拡大された部分であり、境にコンクリートの擁壁があったが、私が入学してほどなく造成工事が行われて全部同じ面になった。
木造の校舎は全部で5棟あった。北側の3棟(北舎・東舎・西舎)は、講堂とともに戦災を逃れた古いもので、外部の板張りが薄い青で塗装されていた。南側の2棟(南舎・新校舎)は戦後に敷地の拡張とともに新築されたものであろう。
教室や廊下の床は剥き出しの板張りで、塗装されていないから、放っておけばすぐ荒れてくる。そこで、毎日、ぞうきんによる水拭きのあと、今度は乾いたぞうきんでこする、それを何回か繰り返すと、しだいにつやが出て光ってくる。何年生の時だったか、隣の学級と競ってつや拭きをしたことを覚えている。
また、このころは一般の教室には照明設備がなかった。廊下側は現在のように壁ではなく、採光用のガラス窓になっていた。昼間は教室の照明がつかないのは当たり前だった。私の記憶では、一般の教室に照明設備がついたのは、中学校に入ってからで、中学校の「課外補習授業」用に、3年生の教室に照明設備がついているのを見て、私は大変にめずらしく思った、という記憶がある。
高校に入っても、照明設備は全教室にあったが、昼間は教室の照明を使わなかった記憶がある。高校でも廊下側は採光窓があった。昼間から教室内で照明を使っていたのが大学の教室で、私はそれを大変に珍しく思ったという記憶がある。こういうことは、後にエネルギー問題を考えるようになってから改めて思い出すようになった。
さて、母校の新荘小学校の北舎は私が中学3年にころに火災を起こして全焼した。私もやじ馬としてかけつけたが、学校火災というものの規模の大きさに圧倒されたことを覚えている。その後、しばらくたってから、鉄筋コンクリートの校舎が新築され、木造の校舎はすべて解体撤去された。
私の小学校時代については、まだまだ回想すべきことが多い。近々「少年時代」として再開したい。 (記憶をさかのぼる「わたしの幼少期」了)