◎「昭和」を進言したのは宮内省の吉田増蔵
『サンデー毎日臨時増刊』一九五七年(昭和三二)二月一五日号から、川辺真蔵〈カワベ・シンゾウ〉の「〝光文〟事件の真相」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。
――「光文」を選んだ種本――
「正直に申しますが、その時、私〔中島利一郎〕の第一に参考にしたのは有名な清朝の康煕帝が、文化事業として空前の効果をあげられたと思う大編纂「佩文韻府〈ハイブンインプ〉」でありました。これは中国歴代の古典、名著のうちにある熟語成句をことごとく網羅してあるといってもよい本でありますが」といいながら、山のように積んである本の中から幾帙〈イクチツ〉かの「佩文韻府」をひっ張り出した。
「私はその時考えたのです。今までの明治、大正時代は日本の国威が大いにあがった時代であった。それは日清、日露、または第一次世界大戦など、戦争による「武」の力の強さが原因となったのである。しかしこれからはそれではいけない、新しく来るべき新天皇の時代は「文」を主とした、すなわち文化国家であらねばならない。そうした考えから「文」を大いに宣揚する意味の文字をさがしたのです。そして「光文」にぶっつかりました。これは唐代の詩人皇甫威の「回文錦賦」に「閲披風前光文爛然、百花互進五色相宜」とあるのに基くのでありますが、そのほかにも二つ三つ選び出して、会議の室へ戻って報告すると、みな「光文」の方がよいといい、「これにしよう」といいあっているのを聞いたのでありました。
それから幾日も経たないうちにみなさんが葉山のほうへお出かけになったようでありました。崩御の日は黒田邸へも刻々電話がありました。私はその頃、事務所でも一番若い方でありましたので、主としてその電話をきいたのであります。崩御の電話をききましてから僅か二、三〇分たっかたたぬに号外が出たのでありました。しかもそれには新しい元号が「光文」だと書いてあったのです。これはしまった! 疑いもなく漏洩したのだ! と私は直感しました。そして一体この始末がどうつくのだろうかと思い迷ったのであります。いうまでもなく、漏洩したとなると、それは独り宮内省だけの問題ではない。内閣の責任でもあり、枢密院にもそれがおよぶに相違ない。そして元号も結局外のものに変更されることになろう。そうした一連の措置をどうつけるか、これは大へんなことになって来たと私はまったく茫然としてしまいました。そのうち翌日になって〔ママ〕昭和の号外も出ましたし、また〔黒田長成〕侯爵がお帰りになって、「ああ漏洩してはどうにもならない。変更のほかに途がなかった。まさか君がもらしたのではあるまいね」といわれた時には、絶対にそれを否認したので、侯爵も「それでわたしも安心したよ」といかにも安心されたという顔でありました。中島〔利一郎〕さんは新たにその時を思い返したようにホッといきをつく。
――「昭和」提案の影の人――
光文問題についての中島さんの追憶は大体以上で一応終った。そこで今度は、なぜこの三十年以前の秘密が今になって世間に公開されるに至ったかの動機について中島さんのいうところはこうだ。
この三十年の間、中島さんはこのことについては一言も他にもらさなかった。ところが昨年(昭和三十一年)夏、NHKから一度テレビに出てもらいたいといって来た。別に身についた芸があるでなし、なんのためにテレビに出るのか、「自分にはそんな資格が全然ないよ」と一度はことわって見たが、ともかくちょっと出てくれといわれて出て見ると、この問題についての質問なのであった。今さらその当時のことを明るみに出す気もちは毛頭なかったのであるが、しかしどこから聞き出して来たのか、アナウンサー氏の質問が相当急所にふれてくる。三十年前の昔話でもあり、特に時勢もまったく一変した現在のことであるから少しぐらいはさしつかえがあるまいと思って、一部を公開したのが、前に触れた「私の秘密」なのであった。
中島さんはそれから話を転じて「昭和」の元号をもち出した「影の人」を明るみに押し出した。
「昭和は私が考えたものではありません、同じ宮内省の図書寮(ずしょりょうと読みます)におられました吉田増蔵〈ヨシダ・マスゾウ〉さん(号は学軒)という漢詩の造詣の深い方であります。大正天皇の勅語は大がい吉田さんが書かれたのでありますが、この方がやはり「佩文韻府」によって「昭和」の元号を思いつかれ、それを当局の方に進言していられたのでありましたから、「光文」がだめになったのでそれにきまったということでありました。何しろあの問題は新聞社でも問題になったそうでありますが、実は宮内省内でも問題になったらしいのです。しかし前にも申しあげたとおり、これが何かの形でともかく責任を問われることになれば、宮内省だけでおさまりがつかない。内閣にも、枢密院にも影響がおよぶおそれがあったのですから、表面には少しも出さぬことになったということであります」
中島さんはこうって口を閉じた。思えば三十年という長いあいだ、われわれにとって常に深い謎であった「光文事件」の裏にはこうした錯雑〈サクザツ〉したいきさつがあったのか。
――公式の元号制定裏ばなし――
私はこの話を終るに当って一つ政府側のいい分、すなわち公式の元号裏ばなしをつけ加えて置く必要があると思う。それは元号制定当時の首相若槻礼次郎〈ワカツキ・レイジロウ〉氏の「古風庵回顧録」の一節である。
《昭和という年号は、政府の提案ではあったが、それは宮内省の御用掛が調べたもので、書経の「万邦協和、百姓照明」〔ママ〕からとったものであった。ところがこれに対し、倉富顧問官(勇三郎)が私案を出し、「上治」としてはどうかといい出した。それは易経の中の言葉だという。倉富のいうには「万邦協和」うんぬんの言葉は、書経中の堯典にある。堯は禅譲の天子で、位を子孫にお譲りにならないで、舜に譲り、舜は禹に譲って、今日でいう共和政治のようなものだ。だから「昭和」はいかん。それよりも「上治」のほうがいいというのであった。これは後の話だが、西園寺〔公望〕公がこのことを聞かれて、日本の元号には、今まで書経から出たものがたくさんあるじゃないか、それを今になってかれこれいうことはない。書経で宜しいといって笑われた。とにかくこの時の枢密院会議は、倉富の説が出ただけで、誰も異議なく「昭和」に決定した。あとで調べてみると、中国の五代あたりに、「上治」という年号があったことがわかり、それを採らないでよかったということになった。》
若槻氏はこういっている。それはそのまま事実であるに相違ない。しかしその会議の開かれる以前、事態がここまでしてくる以前に中島さんのいったようないきさつが裏面において行われていたであろうとする想像も決してあり得ぬことでないことは、いうまでもない。そこに「光文」の報道が決して誤報でなく実は大きいスクープであったという論拠が成り立ち得る理由があるのである。(当時東京日日新聞整理部長、昨年〔一九五六〕十二月二十七日死亡)
文中に、「侯爵がお帰りになって、『ああ漏洩してはどうにもならない。変更のほかに途がなかった……』といわれた」とあるが、黒田長成〈クロダ・ナガシゲ〉侯爵は、枢密顧問官のひとりであり、葉山での枢密院会議に出席していた。したがって、この中島利一郎の証言が事実だとすると、当初、年号は「光文」に決まっていたことになる。
さて、筆者の川辺真蔵によれば、宮内省の吉田増蔵は、「佩文韻府」によって「昭和」の元号を思いついたのだという。インターネット上にある『佩文韻府』検索機能を使って、「百姓昭明」を検索すると、たしかに四件ほどヒットする。川辺真蔵の言を、そのまま信じるわけではないが、記憶に留めてよい証言ではある。
なお、筆者の川辺真蔵は、この文章を書き上げたのち、一九五六年(昭和三一)一二月二七日に亡くなっている。つまり、昨日は、その命日だったというわけである。
以上、紹介した川辺真蔵の文章、あるいは、そこに含まれている中島利一郎の証言などを踏まえた上で、明日は、いわゆる「光文事件」の真相について、礫川の私見を述べてみたいと思う。