◎これが森脇メモだ(「森脇メモ」のメモ)
森脇将光著『三年の歴史』(森脇文庫、一九五〇)の「地方遊説の旅」の部から、「京都」という文章を紹介している。
この文章の最後に、一九五五年(昭和三〇)三月二〇日の都新聞記事の引用がある。本日は、これを紹介する。「都新聞」とは、東京新聞の前身である都新聞ではなく、京都で発行されていた大阪毎日新聞の姉妹紙のことらしい。
語 る〝森 脇 メ モ〟
未 練 残 さ ぬ 五 億 円
造船疑獄の口火を切り、ついには自由党政権を倒してしまった〝森脇メモ〟の本人、安全投資株式会社社長森脇将光氏(五五)が今夕、京都商工会議所で〝これが森脇メモだ〟を講演する。
「一介の庶民に過ぎぬ私のメモがこんなに大きな反響を呼ぶとは思わなかった」と十九日あさ入洛、直ちに旅館に落着いて語る森脇氏には、みじんのケレン味も感じられない。小柄な身体をドテラに包みわずかに残った頭髪をきれいに分けた風貌は決して一世の爆弾男とは見えない、たゞ口許からこぼれる細かい歯並みが印象的だ。
以下講演に先立って氏が試みた〝森脇メモ〟のメモ
――森脇メモが出来るまでについて――
さきに断っておくが政治的な意図は何もなかった、私が警視庁の取調べを受けて出てきてから一年ばかり経って〝赤坂村〟を訪れたら〝フネさん〟というような言葉が盛んに出るし、一寸好奇心を起して綱べてみると政府高官、有名財界人がほとんど毎夜芸妓数十人もあげてさわいでいる、これはおかしいと思っていたところ、昭電事件の時に登場した〝秀駒〟という名の妓〈ギ〉が中心人物になっている。
何かこれは運命的なものがあると徹底的に洗ってみる気になったのだ。
赤坂は古くから知っていたし旧知の者が多かったのであの精細なメモが出来上ったわけだ。
そのためにどれだけ金がかゝったか計算などしていないから覚えていないが一晩のうちに自動車数十台を動員したようなこともあった。
――今度の講演はたまたま選挙中だし、何か含むところは――
そんなものは何もない、ただ、解散と同時にあの事件に関係のない代議士連中が三十人ばかり応援演説をたのむといってきたことは事実だ。
二月に入ってからたまたま九州の方から講演してくれという話が出て、昨年〔一九五四〕の二月十日は北海道で「風と共に去り風と共に来りぬ」の筆下しをした日だし、九州の講演も十日だということ、〝北から南から〟といった感慨もわいたのでつい乗気になって行ったまでだ、行ったら結局九州で六カ所ばかり講演したが、大分妨害もあった。
そんなことは何も気にかけていないが――。京都をすませば二十日は大阪で講演する。
とにかく本を出したりしているので選挙への伏線とみて私が立候補するだろうという東京での専ら評判だったが私は政治的野心を全然持っていないから立候補もしないし、講演にも何らふくみはない。たゞ何から話していゝか分らないほど内容が多すぎて困っている。
――疑獄その後と貴方の現在の立場は――
私は〝森脇メモ〟を発表して正義を主張したときには汚職の根を洗うという意気に燃えていたが、もう政権を交代したことだし、今さらとやかく言うことはない。赤坂村はグッとさびれたがつい最近やっと元気を取戻しつゝあるらしい。
しかし、あの時のような汚い面はもうなくなったらしいし、政財界が自粛していることはいえると思う。それだけでも目的は果したわけなんだ。今後ああしたメモを私は作ろうなんかとは思っていないし現在の仕事で手一杯だ、しかしまたもしああいうことにまき込まれたらどうなるか分らない。
私が失った五億ばかりの債券もいまは未練を残してないし、今この仕事(安全投資株式会社)に専念している。まあ訴訟でもすれば一億五千万ぐらいは返るかな。
――著書「風と共に去り風と共に来りぬ」について――
あれを書き始めたとき一巻にまとめようと思っていたが結局五巻になってしまった。
私は一日四時間ぐらいしか睡眠を取らない習慣だし、大てい深夜に書いたものだ。小学生時分から作文は大きらいだったが戦後〔昭和〕二十三四年当時随筆めいたものを書きはじめたのが病みつきだ。
たとえば〝森脇メモ〟にしたって〝随筆〟の資料として赤坂村の生態を一寸調ベてみようというくらいの軽い気持から出発してあそこまで行ってしまった。すでに六万通に上る書評がよせられているが、これについて河井〔信太郎〕検事は「国民の世論んだネ」といっていたが、正しくその通りだ。
(三〇・二・二〇都新聞)