◎腐敗した時代に必要なのは「平清盛」
昨日の続きである。森脇将光著『三年の歴史』(森脇文庫、一九五〇)の「地方遊説の旅」の部から、「京都」という文章を紹介している。
昨日、引用した箇所に続き、一行あけて、次のように続く。
このような主旨の講演は八時すぎに終り、その後で質疑応答に移った。すると学生風の若い婦人が立って
「いまの先生のお話を伺っておりますと、本当に現代は末世だと思います。かつての日本に、このような時代があったでしょうか、もしあったら、いつごろだったかお教え下さい」
その質問に答えた要旨は、
【一行アキ】
――私はかって伊豆伊東の別荘で、歴史をひもとき、平安朝末期の頃にいたり、時の貴族政治の堕落腐敗と各有力寺院が多くの僧兵を擁しての私意をほしいまゝにしている姿に愕いた〈オドロイタ〉ことがある。
世襲に権力をにぎる貴族たちは、日々竜頭鷁首〈リュウトウゲキシュ〉の船にのって、歌舞音曲に遊楽に身をゆだね、庶民はまったくその搾取のなかで虫けらのような生活をしている。寺院仏閣は、貴族の邸宅とともに、宏壮をきそったが、庶民は寒夜の土間に荒むしろをしいて寝るというのが、常態で、死んで葬ることができず、都大路には、よくだれの者とも知れぬ死骸が、そのまゝに放置されてあったという。
しかも、延暦寺とか、叡山とかの寺院は、巨富を保って、豪奢な生活をし、その財宝と、権力をにぎるために、多くの悪僧をあつめた。
彼らは庶民済度のため、仏道をまもるのではなくして、彼等の私利私慾を護るために、法燈をもって己れの盾としたのであった。
後白河法皇が、加茂川の水と、双六のサイと、山法師の横暴はどうすることもできないと、歎かれたのも、そのころのことである。
彼等は何かというと、法燈守護の一字をもって、立ちむかうのだから、仏道のさかんなそのころとしては始末におえなかったのである。
そればかりではない。彼等の要求がきかれない時には、神輿〈ミコシ〉をかついで、都大路にのりだしてきた。神輿を護る悪僧たちは、小手脛当、腹巻きという武装姿の上に法衣をまとい、薙刀〈ナギナタ〉をもち、高下駄で、都大路をのしのしと練りあるき、これに刃向う者には、たちまち仏罰が当るといって、強訴するのだから、全く始末におえなかったのである。
このときに当り、私の痛快に思うのは、平清盛であった。
清盛はまだ青年時代、革新の気にあふれていた彼は、この暴力を承認することができなかった。
仏法を自らの栄華と権力のダシにつかう腐敗堕落の僧、仏罰なんぞどこの神輿にあらんやと、敢然たって、悪僧たちと闘って、彼等の悪業を承認せず、その横車を蹴ちらして行ったのである。
歴史の頁がこゝにくるに到って、私は清盛の意気を壮とせずにはおられなかった。
迷信にとらわれず、理由なき時の強権を怖れず、弓をひく者には仏罰たちどころにくだると唱える、悪僧共の護る神輿にむかって敢然弓を放った壮烈なる清盛の意気! 時代の風雲児、青年平清盛、彼は信念と、度胸と、捨身の戦法によって、この一大壮挙を敢行した。
腐敗した時代に対しては、いつも革新と、浄心のため、一身の利慾からはなれた度胸に、捨身の勇猛心をもちうる青年清盛が必要である。【以下、次回】