礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「光文」を選んだのは私です(中島利一郎)

2017-12-27 05:34:49 | コラムと名言

◎「光文」を選んだのは私です(中島利一郎)

『サンデー毎日臨時増刊』一九五七年(昭和三二)二月一五日号から、「〝光文〟事件の真相」という文章を紹介している。
 昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。

  ――思わぬ時に意外の放送――
 それから三十年の月日が流れた。昨年〔一九五六〕の十月のある日、当時の島崎〔新太郎〕副主幹に会っていると「時にあなたは中島利一郎〈ナカシマ・リイチロウ〉という人を知っていませんか」というのである。少しも心あたりがないというと、「早稲田の史学科を出たとかいう人なんですよ、中野正剛〈ナカノ・セイゴウ〉、緒方竹虎〈オガタ・タケトラ〉君などとも懇意だった人だそうです。その人がね、このあいだ、NHKのテレビで実は光文をいい出したのは私だったという放送をしたんです、「私の秘密」という時間でね。この時間はテレビでも一番おもしろいですが、私はあいにく聞きもらしたので、NHKに問い合わせましたよ。そしてそれが事実だというから、直接面会を申し込んで、話をきいて来ました。中島さんのいわれるとおりだとすると、あの時の「光文」は大スクープだったわけですね、おもしろいじゃありませんか」と至極愉快そうであるが、実をいうと私にはその当時のことはもうあまり関心に価しない話であった。だからその時はただそのまま漫然ときき流して来た。ところがそれからしばらく経って、毎日新聞の図書編集部から一度その中島氏に会って話をきいてくれといって来たのである。その要望をいれて晩秋のある曇った一日、豪徳寺に近い世田ケ谷の中島氏宅を訪れてききとったのが大要次のようなものであった。
  ――枢府の非公式委員会――
「私は本来黒田侯爵家の藩史編纂所にいました。藩祖の如水、長政父子を中心に黒田家の歴史を調べるためにはいったのであります。その関係から黒田藩出身の長老金子堅太郎子爵(後の伯爵、枢密顧問官)とは非常に懇意でありました。ところが金子子爵が宮内省の臨時帝室編集局の長官となられた。君も来てくれぬかという話がありましたが、私は前に申しあげたとおり黒田藩史のほうの仕事がありましたので、それを止めるわけにまいらず、結局宮内省と黒田家と両方かけもちのような形になっていたわけです」と中島さんは静かに語り出した。室中がギッシリ和漢の古書で積みあげられ、僅かに主客相対してすわり得る空間を残しているだけの書斎兼客間といったふうの一室である。
「大正天皇が御病気になられた折、まず問題になったのは、もし万一のことのあった場合に対する措置でありました。天皇の地位は一刻も空位を許さないのでありますから、崩御の瞬間に摂政殿下御登極〈トウキョク〉あらせられるはずであり、それと同時に、直ちに新しい元号が決定されねばならない。だからこれらのことは、実のところ、御在世中にあらかじめ準備されねばならぬはずなのですが、しかしそれを少しでも世にもらしたらそれこそ大問題になる。すべてきわめて秘密のうちにことを運ばねばならなかったのです。特に元号の制定が枢密院の議決を要するのでありましたから、その頃宮内省と政府からきわめて密々に枢密院にもち込まれたのであります。枢密院では一つの委員会を作ってその準備調査にかかったのですが、もちろん非公式のもので、委員長には黒田〔長成〕侯がなられ、金子子爵や前文部大臣の江木千之〈エギ・カズユキ〉氏などがその委員に当たられました。
 前にも申しましたとおり、これはきわめて密々のうちに準備されたのでありますが、しかし鵜の目鷹の目で見張っている新聞社の目をくらますことは容易なことでなかったのであります。それで委員会は宮内省内枢密院の事務所などで開くわけにはゆかない。主として黒田侯爵邸で開くことになっていたのであります。ところが厄介なことには、この元号はいつでも中国の古典、特に四書、五経などのうちに用いられている言葉のうちから選ばれるのが慣例となっている。それでその方面に関する調べが当然必要になってくるのであります。
 十二月の何日でありましたか、日は忘れましたが、当時黒田邸(赤坂の溜池〈タメイケ〉に近い広い一区画であった)のうちに住んでいる私に急に来てくれとのことであります。なんだろうと思って出かけていくと、侯爵専属の応接になっている西洋間に侯爵はじめ金子、江木その他二、三の顧問官が揃っていて、まず扉をよく閉めろというのです。それから「これからのことはいっさい秘密、何人〈ナンピト〉にも絶対に口外してはならないぞ」と再三、再四念をおされるのです。一体なんの必要があってこんなばか念をおすのかと不思議に思っていると、さてそれからいい出されたのが、その元号の始末で、何とか適当な言葉がないだろうかという相談であったのであります。
 私も返事に困まりました。参考の手がかりにすべきものは何一つもち合わせていません。だからちょっと宅に帰って本と相談してまいりたいといっても、それはできないという。この室から外へ出てはならない。そとの誰にも口をきいてはならないという。それでは私としてはどうにもならない。その結果、ともかく五分か十分間なら、自宅まで帰って来てもよいということになったが、しかしそのあいだ、どこへも立ちよってはならない、表(黒田家の事務所)へも寄ってはならないと堅くいいつかって自宅まで帰ったのでした」
 中島さんはこう語って、側にあった茶椀をとりあげ一口茶を味わった。それからまた続ける。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2017・12・27(時節柄かミソラ事件が急浮上)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする