礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その4

2018-07-21 00:35:18 | コラムと名言

◎「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その4

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その四回目。このあたり、すでに、桃井さん独自の視点をかいま見ることができる。

B、 最高裁法廷意見の論点(b)に関して
 原告が<弾けない>と強く主張する場合は、多くの場合、直接の理由として、「君が代」を利用した戦後教育のあり方に対する批判が提示されている。これは、最終意見書(2003.10.1)に明瞭である(下線は引用者)。
「 私にとって、音楽を聴き、演奏することは、日々の生活の中で、なくてはならないものです。そして、子どもたちが、楽しそうに歌ったり演奏したりする時間を共にすることは、私が音楽の教師を続けていることの大きな理由であり、喜びでもあります。
 この裁判の中でも述べてきましたが、「君が代」の歴史的な役割、使われ方は、私にとっての音楽そのものの意味を冒涜するものです。そして今また、人の心を束ねるために、教育の中で使われようとしています。音楽や教育が、国家主義をすすめるために利用されることは、私の音楽への、教育への想いに反することです。その上、「君が代」は、音楽的にも全く認めることのできないもので、ピアノ伴奏をいくら強制されても、教師として、音楽に関わるものとして、この曲を弾こうという気持ちになれません。むしろ、弾けないのです。
(中略-2002年3月の卒業式についての校長・教頭との話し合いへの言及をうけて)
 この「ロボットになりなさい。」の教頭先生の言葉に、教育の場も、ここまで来て しまったのかと、落胆しました。しかし、この9月26日、都教委より提出された準備書面には、以下の様な主張がされていました。
 『原告としては、地方公務員法30条、35条により、職務専念義務を負うのである から、原告の言う「演奏者の意気込み、聴衆を思う心、曲に対する思い入れ」において、全力を尽くすべきであった。〔21〕』
 この主張は、ロボットになる以上の人権侵害であり、人格の否定です。「君が代」 を思いを込めて全力で演奏するということは、私にとって、「君が代」に対する、思想、信条を捨てた上、さらに自分を偽り、裏切る行為です。この様な主張を公権力がされることに、戦前への回帰を感じます。」〔22〕
 なお、「君が代」が戦後、学校教育の中に再度持こまれるようになり、校長の裁量権が強まる中で普及してきたことへの批判は、最初の本人意見書でも記されている〔23〕。ここで注意しなければならないのは、原告の勤務する小学校では、「日の丸」「君が代」を中核的要素とする国家主義の学校儀礼はすでに基本的には完成しているということである。原告の第1審最終意見書は、事件以後2003年卒業式入学式までの儀式をめぐる動きを記しているが、1999年の入学式の時点で、コの字型の会場配置以外は「日の丸」正面掲揚、「君が代」斉唱も基本的には導入済みである。会場配置の問題は2000年4月に赴任したS校長によって改変され正面壇上に正対するものになっている〔24〕。「君が代」に関しては、原告が同校に赴任した時点では、式次第中に確固たる地位を確保し、<ピアノ伴奏かテープ伴奏か><ピアノ伴奏をする場合は誰がするか>が焦点となっている。すなわち、子供への事実上の強制構造は基本的に完成している。
 この点に関連して重要な陳述がある。本人調書(2003.5.29)で、原告は、職員会議の係分担にピアノ伴奏の項目がないのないのになぜ職員会議で伴奏できないことを発言したのかという質問に対して以下の様に答えている(下線は引用者)。
「 そのままあなたも何も言わずに、校長からも何も話がないし、係分担にはないんだからということで、当日を迎えることもできたでしょう。
 はい、ですけれども、具体的に考えれば、入学式のときに、私は校長先生から言われていますけれども、国歌斉唱、君が代斉唱のときに音楽が流れなかったら式がその場で中断します、そういうふうなことを考えたときに、私がここできちんと言わないと、そういうふうなことが起きてしまうと思って、新しいところで、やはり皆さんがどういうふうに考えているか分からないところで発言するのは、とてもきついんですけれども、思い切って発言しました。
 何と発言しましたか。
 面談のときに、校長先生から、国家、君が代のピアノ伴奏をお願いされたけれども、私は思想信条上それから音楽の教師としても弾けないというふうに述べさせてもらい ました。〔25〕」
 ここは、不伴奏が儀式の進行を少しも乱さなかったという文脈で原告側から採り上げられそうな証言であるが、むしろ不伴奏を基本的には個人の倫理的判断の問題と位置づけていることが重要である(言い換えれば、原告が知る東京都の小学校では国旗国歌儀礼の導入自体は押しとどめられなくなっている状況を前提とした判断である)。強制はあり得るとすれば学校儀式への国旗国歌儀礼の導入自体に起因しているのであって原告個人が伴奏するかしないかに関わらないのである。一審判決における裁判所の判断もその点を指摘している。それを下に引用する(下線は引用者)。
 「b 子ども及び保護者の権利侵害の有無
 原告は、本件職務命令は子ども及びその保護者の思想・良心の自由を侵害するもの である旨主張する。
 しかし、仮に原告主張のように子どもに対し思想・良心の自由を実質的に保障する 措置がとられないまま「君が代」斉唱を実施することが子どもの思想・良心の自由に対する侵害となるとしても、そのことは「君が代」斉唱実施そのものの問題であり、校長が教諭に対して「君が代」のピアノ伴奏をするよう職務命令を発したからといって、それによって直ちに原告主張の子ども及びその保護者の思想・良心の自由が侵害されるとまではいえない。原告の主張は採用できない。〔26〕 」
 ここは、原告の思想・良心(b)の性格に関わる重要な論点である。控訴審判決でもほとんど同じ判示が行われている〔27〕。この後の原告側の書面では有効な反論はできていない。原告側弁論は、この(b)に関して後述する西原博史の<抗命義務>説的展開を一貫して続けてゆく。したがって、大事な論点の位置づけが焦点を外れていくのであった。また、この点を焦点化させた藤田宙靖反対意見に関する諸研究者の称揚も、おおむね藤田の原主張から離れていくことになる。【以下、次回】

注〔19〕『全資料』p81
注〔20〕敢えてそれにあたるものに含めることができるのは以下の部分ぐらいである。2003年5月29日の本人尋問で原告側代理人の「思想信条上君が代のピアノ伴奏ができないのはなぜですか。」という質問に対して、日の丸・君が代に批判的な在日韓国人音楽家を話題にした上で「私は君が代を特にそういう方たちの前で公然と歌うことができないと、それが私の思想信条です。」と答え、続いて「ましてや、ピアノ伴奏を自分の手ですることはできないということですね。」という質問に対して「はい。」と答えている(『全資料』p102)。
注〔21〕『全資料』p155にある。
注〔22〕『全資料』p130
注〔23〕『全資料』p74
「 しかし、1950年を境に「君が代」は政治的な力で学校教育の中に持ち込まれます。1987年沖縄、1996年北九州市、1999年広島(県立高校の校長の自殺)、2001年束京国立市。たくさんの処分者を出し、そしてついには人の命までも奪い、学校教育での実施率を上げてきました。
 国歌というだけで一人ひとりの心の有り様は問題にされることなく、こんなにも人を追いつめ、人が処分されてしまう。「君が代」は本来の音楽の姿から遠くかけ離れてしまっています。
 一方、東京都教育委員会は、1998年、管理運営規則を校長先生の権限を強めるために改正しました。これ以降、本来、教育行政が、憲法、教育基本法、世界人権宣言、国際人権規約、子どもの権利条約に基づき、自由な雰囲気の下で皆で創意工夫し、良い知恵を出し合って、民主的に行われるべきであるにもかかわらず、まるでそうはならず、かえって校長という職が、教育行政の上意下達のための単なる伝達機関になっています。職員会議においても、実際に子供にかかわる職員の意見をよく聞き、合意を図ろうとはせず、「聞くのは聞くが決めるのは私です」という校長先生をたくさん作り出しました。校長先生自身の教育理念であるなら、まだ話し合いになるのですが。
 そして、この「君が代」は、今また戦前・戦中のように人の心を束ね、また上からの方針に意見を言う者をあぶり出し、その良心を踏みつける道具として現れ、悪用されようとしています。」
注〔24〕『全資料』p85
注〔25〕『全資料』p102
注〔26〕『全資料』p718
注〔27〕『全資料』p732
「b 子ども及びその保護者の権利侵害の有無
 控訴人は、本件職務命令は子ども及びその保護者の思想・良心の自由を侵害するものである旨主張する。
 しかし、仮に控訴人主張のように子どもに対し思想・良心の自由を実質的に保障する措置がとられないまま「君が代」斉唱を実施することが子どもの思想・良心の自由に対する侵害となるにしても、そのことは「君が代」斉唱実施そのものの問題であり、校長が教諭に対して「君が代」のピアノ伴奏をするよう職務命令を発したからといって、それによって直ちに控訴人の主張する子ども及びその保護者の思想・良心の自由が侵害されるとまではいえない。控訴人の主張は、採用することができない。」

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