礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その5

2018-07-22 03:42:54 | コラムと名言

◎「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その5

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その五回目。

C、 最高裁法廷意見の論点(c)に関して
 この点も本人尋問陳述書 (2003.5.22)に詳しい。原告Fによれば、「君が代」は、音楽的側面からは、雅楽の旋律にドイツ和声の伴奏をつけたという極めておかしなものであって、さらにそれを平均律のピアノで演奏することが非常に不適切であることは音楽を勉強してない人であっても極めて容易に感じられるという〔28〕。この原告Fの判断は、校長が尊重しなければならない専科教諭の専門性に基づくものであって、少なくとも原告F自身に伴奏させることは避けなければならない。これは、法令上は、憲法23条及び学校教育法第28条⑥「教諭は児童の教育をつかさどる」(現行は第37条⑪)を、また、判例上は、学テ判決を根拠に主張できることである〔29〕。長くなるが、この点についての原告Fの主張を引用すると以下である。
「 4 「君が代」について
(1)音楽的な側面から
 詳細については、すでに提出済みの川島氏の評論「『神の国』が制定した、自国の 文化を蔑む『国歌』」と、第1準備書面をご覧いただければと思います。それ以外にも参考資料として、「『君が代』指導、避けられぬ」(2000.1.31朝日新聞)と丘山万里子氏の「国歌『君が代』を考える」(上)(下)、「君が代の季節に」その1、その2、をご覧いただければと思います。
 「君が代」は、明治時代、「天皇陛下ヲ祝ス楽譜改訂ノ儀上申」により、宮内省雅楽課の林広守らにより作曲され、ドイツ人エッケルトが和音を付けたもので、雅楽の旋律にドイツ和声の伴奏を付けたという、音楽的には、極めておかしなものです。さらに、それを平均律のピアノで演奏するということは、繰り返しになりますが、音楽的には、非常に不適切で、大変に気持ちの悪いものです。これは音楽を勉強された方であれば当然、そうでない方でも極めて容易に感じられることだと思います。
 また、メロディーと歌詞の不一致についても、申し上げている私としても大変残念 なことなのですが、故・中田喜直氏も率直に言及されているように、歌としては出来の悪いもので、子どもたちの音楽的感性を育てるために歌う教材としてふさわしいと言えるものではありません。元々雅楽には、唱法はありません。「君が代」を、日本という国とその伝統文化を象徴とする国歌とするのであれば、雅楽の伝統に則って、歌詞をなくし雅楽の演奏のみ(奏楽)にする必要があるということになります。」〔30〕
 ところが、原告側書面では意外なことに、学校教育法を援用するところが少ない。上告理由書では原告の独立した職務権限を憲法23条と学テ判決に加えて学校教育法第28条も援用して主張している部分がある〔31〕。しかし、それと専科教諭の専門性を最も尊重しやすいはずの楽曲と伴奏方法の適否の問題との結びつきが不明確である。【以下、次回】

注〔28〕同趣旨の見解は「川島素晴(作曲家)意見書」により詳しく展開されている(『全資料』p293以下)。
注〔29〕「専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない。」
 法廷意見はこれとは異なって、憲法19条に関わる主張として把握している。
注〔30〕『全資料』p80

*このブログの人気記事 2018・7・22(ズビスコは久しぶりの登場)

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