礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

本居宣長は世界の大勢を知らないお座敷学者(竹内大真)

2018-07-09 04:00:20 | コラムと名言

◎本居宣長は世界の大勢を知らないお座敷学者(竹内大真)

 月刊誌『四天王寺』の第二七四号「四天王寺復興記念特輯号」(一九六三年一〇月一〇日)から、福島政雄「太子に関する論議」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して次のように続く。

 なお水戸の不染居士〔森尚謙〕の「護法資治論」にも太子の力足らざるなりと言い、白面の書生往時の事勢を詳かにせず、太子をそしるのは思わざるの甚しきにあらずやと言つています。これは常識的な太子弁護論でありますが、一風は一種の見識をもつて大乗的精神と日本国の姿についての考からその論を立てているようであります。次のようであります。
《馬子の悪逆は分明なれども、聖徳太子の馬子を討ち給はぬ事を馬子一味の様に後世の儒者神道者などの評して春秋の文法に習ひて廐戸天皇を弑すとまで書きたる書も有るよし、如何なれば聖徳太子一人を斯く悪む〈ニクム〉事にや。聖徳此時までは未だ太子にも立ち給はず、況んや摂政にてもなし、常の皇子なり。若し皇子として馬子を討ち給はぬが罪ならば、余の皇子方も同罪なり。若し又太子に立ち摂政をもし給ふ時に至つて事を興し給はぬやと云ふは、先づ馬子は天子の舅〈シュウト〉なり。其の上天下の軍馬を領し、其の勢ひ泰山の如し。若し是を亡さんとせば、新大納言の清盛の悪を憎んで隠謀を企て、由なく其身を失ひ、又恐れ多くも後醍醐天皇鎌倉を悪ませ給ひて、其の末本朝未曽有の乱国と成りたる如く成行しも知るべからず。聖徳太子前知の徳を具して黙止給ひたる処、小智を以ては計り難き事なるべし。斯る姦猾〈カンカツ〉の徒時を得て上に立ちたる時は、其の人の悪行の長ぜぬ様に漸々と善を勧むるより以上計は有るべからずとぞ思はれ侍る。》
 これは少しく物足りない感じはありますけれども、兎に角一見識はある論ということが出来るのであります。此の外色々のことを述べて最後に太子の薨去〈コウキョ〉及び慧慈〈エジ〉が太子のあとを追うて翌年に死んだことを述べ、太子は聖人とも申すべき方であると断じて居ります。
 次に大日本史論賛集の中の聖徳太子厩戸伝賛はあらゆる方面から太子を攻撃して、近世林道春の論が之をつくしていると結んでいます。水戸学では大日本史の編纂を志して居ながら、太子様のことを正しい史書によらず、つくりごとだらけの「太子伝暦」などによって述べて居り、殊に太子様が推古天皇を立て給うたように言い、陰柔制し易き女王を立てて云々など述べていることは言語道断のことであります。推古天皇は馬子が葛城の県を望みました時に厳然としてこれを退け給うたのであり、决して陰柔制し易き女王ではなかつたのであります。一風は「天皇は女帝ながら、さしも威勢強き馬子の内奏を聴し給はざるは誠に賢君なるべし、宜なるかな、群臣三度まで上奏して天皇に奉ぜし事」と讃歎しているのであります。
 以上色々取まぜて太子様についての論議を述べましたが、明治以后〔以後〕太子様に関する著述は非常に多く、併し太子様を非難するものはあまり無いようであります。徳川時代の学者が太子様を攻撃しているのは、徳川幕府に追従する心持があるのではないでしようか。最近に日本的自覚への道標として「聖徳太子」〔清山房、一九六二〕という著述を出して居られる竹内大真〈タイシン〉博士は本居〔宣長〕などの国学者を世界の大勢を知らないお座敷学者と云つて痛罵して居られますが、実にそのとおりでありましよう。世界の大勢に眼を開いて太子様が如何に世界無比の大人物であらせられるかを知れというのが竹内博士の叫びであります。思想家であり、学者であり、軍事家であり、大改治家であり、大外交家であつて、しかも国の文化のあらゆる面において独創的な叡能を発揮したもうた上に、さらにより以上の意味において、日本国民の一人として、最も雄大な気宇を体現したもうたということ、実にあらゆる面において万代の師として仰がるベき大人格であらせられたと言われる竹内博士の言は、今後太子様を仰いで日本国民の道を進む人のための無上の励ましの言葉と思われるのであります。  (昭和三十八年九月十五日稿)

 文中、「太子伝暦」という書名が出てくるが、これは、九一七年(延喜一七)に成立した、藤原兼輔〈フジワラ・ノ・カネスケ〉編『聖徳太子伝暦〈ショウトクタイシデンリャク〉』のことであろう。

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コメント (1)
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