◎国を誤るものは陸軍である(昭和天皇)
重光葵『昭和の動乱 下』(中央公論社、一九五二年四月)から「松岡外交」の章を紹介している。本日は、その二回目。
二
仏印交渉 仏印から雲南鉄道によつて送られる援蒋物資は、莫大なものであつて、河内〔ハノイ〕はまつたく重慶援助の港と化してしまつた。かかる日本に対する非友誼的状態は永く続けらるべきものではない、と日本側は主張した。南支方面を占領した日本軍はすでに仏印国境に到着してゐた。
仏印総督ド・クー提督は、少くとも表面ヴ・シー政府の命令を奉じてをり、ヴィシー政府はドイツ勢力下の仏国政府であり、日本に対しては友好的でなければならぬ、その仏印が、日本に対する敵対行動を続けるために重慶政府を援助すること、は許すべからざることとされた。日本は、雲南鉄道が重慶援助に使用せられざることを、見とどけるために、河内等北仏印の必要なる地点に、軍隊を進駐せしめる必要がある、といふので、陸軍は、西原〔一策〕少将を派遣して、ド・クー総督と交渉せしめ、松岡〔洋右〕外相は、アンリ大使やヴィシー政府と直接に交渉した。
仏印総督は、日本側の圧迫により、やむを得ず譲歩する、といふ態度をとつた。その消極的非妥協的態度は、時として少からず日本軍部を刺戟したが、日本軍の北部仏印進駐は遂に仏印側の承諾するところとなつた。
しかし、ここにも軍部内の不始末が起つた。政府の定めた、談合の結果平和的に進駐する、といふ方針は、軍の中堅将校の策動によつて枉げられてしまつた。出先陸軍の参謀将校は、中央とも連絡して、北仏印を武力的に占領し、みづからこれを管理しようといふ満洲事変以来の考へ方をした。安藤軍司令官の下に根本参謀長があり、また海上より進入する手はずの軍には、長(勇)参謀長がゐて、参謀本部からは、富永〔恭次〕第一部長が出かけて来て、この計画を直接指揮した。彼等は、交渉の任に当つてをる西原少将の穏健な態度には不満であつて、交渉をも無視して行動した。海軍は大本営の命令に反する軍隊の行動に強く抗議したが、出先陸軍はこれを聴かなかつた。これがために、交渉成立によつて平和的に進駐することができたにも拘はらず、殊更に飛行機爆撃等による軍事行動がとられた。天皇陛下は、この軍の不統制を後で知られて、国を誤るものは陸軍であると嘆ぜられた。この不始末はともかく彌縫〈ビホウ〉せられて、合意の範囲内における平和進駐の建前だけは、維持することができた。而して、その後に、日本と仏印との間に通商経済の広汎なる取極めも成立するに至つた。【以下、次回】
文中、「安藤軍司令官」とあるのは、南支那方面軍司令官・安藤利吉(リキチ)中将、「根本参謀長」とあるのは、南支那方面軍参謀長・根本博少将のことである。
根本博は、一九四一年(昭和一六)に陸軍中将。彼は、戦後の一九四九年(昭和二四)、密航して台湾(中華民国)に渡り、国府軍の軍事顧問を務めたという異色の軍人である。