◎山中襄太の『コトバの源を探る』を読む
山中襄太(じょうた)という言語学者がいた(一八九五~一九九六)。「語源」の研究で知られている。言語学者といっても在野の研究者であり、その「語源学」も、学問の世界では、ほとんど評価されてこなかったようだ。
その山中に、『コトバの源を探る』(教育出版株式会社、一八七九)という著書がある。著者の「語源学」について知るためには、カッコウの入門書と言える。
本日は、同書から、「はは(母)」、「ちち・てて(父)」の二項を紹介してみたい(六七~七〇)。
はは(母)
「はは(母)」はもと「パパ」であった。原始日本語のハ行音がp音だったからというだけでなく、多くの民族が、もと「母」を「パパ」と呼んでいたのである。
乳児が母乳を求めて発する声は、最も発音しやすい唇音【しんおん】のpかm、あるいは舌音【ぜつおん】のt・dの音であることは自然である。乳幼児が母乳を求めて、「パパ」とか「ママ」とか「タタ」とかの声を出す。それが「母乳」の意味になるのは、ごく自然で、「母乳」からさらに「乳房」の意味になり、「母」の意味になるのも自然である。かくて、「パパ」「ママ」「タタ」は、いずれも「お母さん」とか「乳房」または「母乳」の意味をも兼ね表した。
ところで古代の社会においては、どの民族も母系社会であって、母親が家長・主人であり、その母親のところ(家)へ通ってくるのが父親であった。だから父親は、家族の一員というよりは、むしろ客のような存在であった。ところが経済的な社会の変化とともに、それまでは「通【かよ】い夫【づま】」であった父親が母親の家に定住して家族の一員になりすますと、次第に実力を発揮して家の実権を握りはじめ、母親に代わって家長の地位に就くことになる。すなわち、母系社会が父系社会へと生まれ変わるのである。そして、母親から父親へ家長権が移るとともに、それまで家長であった「パパ」という母親に対する呼び方が、新しい家長の父親に対しても使われるようになるのである。
いま、「パパ」といえば「父」の意味になってしまったけれども、世界の民族の中では今でも papaが「母」のところがあり、また「父」と「母」の両方をさす民族がある。例えば、ポリネシア語のpapa、ミクロネシア語のpaba、メラネシア語のpopo、アイヌ語のhapoなどは、父と母との両方を意味する。
ついでだから一言付け加えると、『アラビアンナイト』の「四十人の盗賊」の話の主人公アリ=ババ(Ali Baba)とは、「高貴な―父」すなわち「偉いお父さん」という意味である。
ちち・てて(父)
前項で、「パパ」「ママ」「タタ」は、もといずれも幼児が発しやすいことばで、「お母さん」および「乳房」「母乳」の意味を兼ね表した民族の多かったことを記したが、同じ理由から、t音の「チチ」「テテ」「トト」が、またそうであった。その例として、古英語tittから、「乳房」「乳首」を表す英語titが生まれ、古フランス語teteから、同じ意味を表す英語teatが生まれて、現に使われており、さらにはインドネシア語のtitik、トラック語のtut、アイヌ語のtotto などは、いずれもギリシア語のtitthosとともに「乳房」のことである。
ところが母系社会から父系社会に転移して「家」の実権が父親に移ると、それまで「母」を意味していた「チチ」「テテ」「トト」が、そのまま「父親」を意味するようになったのであり、日本では、「ちち」「てて」「とと」のいずれもが「父」を意味することになった。「父親のわからぬ子」「私生児」の意味に使われる「ててなしご」のテテがそうであり、「とと(父)さん、かか(母)さん」のトトがそうである。また、サンスクリット語、ギリシア語、ルーマニア語、 ハンガリー語、フィンランド語、南洋のチャモロ語、フィリピンのタガログ語、チベット語、中国語など、すべて「父親」のことをtataと言うのも、同じ転化である。
さて、まことに興味深いのは、宮中の皇族がたや宮家などの貴族、本願寺両家などの御家庭では、「オモウさん」が「お父さま」であり、「オタアさん」が「お母さま」として現に使われていることである。言うまでもなく、「オモウさん」は「ママ」の系列の変化で、モウはmammaから、「オタアさん」のタアは「オタタさん」の変化で、タアは tataからの転にちがいない。『大言海』の「おも(母)」の項は
《おもト云ヒ、あもト云フ、共ニ、形容詞うまし(旨)、あまし(甘)ノ語根ニテ、(中略)乳ノ味ニ就キテ云フ語ナリ。(中略)乳ヲ、うまうまト云ヒ、更に約【ちぢ】メテ、乳母【チオモ】ヲ、ままト云フ。母ハ百済【くだら】語ニテモ、おも、今ノ朝鮮語、おまに、沖縄ニテ、あんまあ。母【ハハ】ニ同ジ。阿母【アモ】。(東詞ニ)カカサマ。但シ、おもハ、親母ニモアレ、乳母【チオモ】ニモアレ、乳ヲ飲ムニ就キテ呼ブ語ナリト云フ。(下略)》
と、例外と思われるほどに詳しく説明してあるが、要するにmamma, mamaの系列から出た 「おも」で、「ちおも(乳母)」「ゆおも(湯母=上代、乳児に湯を飲ませる役の女性)」ということばもある。また、満州語でomo、台湾のツォー語amo、チベット語ama、アラビア語 umm、エジプト語omm、ヘブライ語am、バスク語amaなど、いずれも「母」を意味するこ とばと、同系の語である。――だとすると、やはり高貴なかたがたの社会では、その家庭生活はわれわれとは違って、今でもその中心が「ママ」だということになりそうである。わたしどもにとっては、「オタアさん」がテテ・トト系の「父」、「オモウさん」がママ、オモ系の「母」の語感で受け取られ、まさに逆のところが面白い。
【一行アキ】」
以上、「乳【ちち】」「父【ちち】」「母【はは】」が同源の幼児語に基づくことを述べたが、従来の語源説では、大矢透氏が『国語溯原【そげん】』の中で、「父」と「母」とは「幼児の発音しやすい偶然の音から」としているのが注目されるほかは、例えば『大言海』が「ち(乳)」に、「血、化シテ成ルト云フ」と記し、「ちち(乳)」に「乳(ち)ヲ重ネタル語。幼児ノ語ニ起ル」と記し、「ちち(父)」には「霊【チ】(=神、人ノ霊、又、徳ヲ賛【ホ】メテ云フ語)ヲ重ネテ云フ語」、「はは(母)」には「愛【ハ】しノ首音ノミヲ重ネテ云へルニテ、小児語ニ起レルナラム。霊【チチ】ノ如シ」といった程度の、いずれも苦しい語源説ばかりで、ここにその諸説を紹介する煩は、あえて避けることにした。