◎日本側はソ連に対するドイツの指導力を盲信した
重光葵『昭和の動乱 下』(中央公論社、一九五二年四月)から、「三国同盟 その三」を紹介している。本日は、その三回目。
三
三国同盟とソ連 ドイツは当時英仏と死活の闘争の真最中であつた。ソ連とは、不可侵条約を締結して、バルト及び東欧の処分について、たびたび手荒き取引をした、ドイツは、今や、東方に幾分の安全を得て、西方英仏に対して、イタリアとともに精力を集中してゐる。日本は、北方ソ連に対する関係は、平沼〔騏一郎〕内閣時代より少しも改善はしてをらぬが、それにも拘はらず、すでに南進の方向にあつたので、英米等に対する関係においては、ますますドイツと利害を同じうし、共同の敵に直面してをるやうに、感ずるに至つた。また日本は、北方の危険は、当分、独ソ関係の好転に信頼することを得ると信じた。
ドイツは、東方において、一時的に安全の保障を得たのみであつて、根本的に独ソの関係に変化を見たわけではなかつたが、日本に対して、独ソ関係は不可侵条約締結以来甚だしく好転し、ソ連はドイツの意向を常に尊重するやうになつたから、日ソ関係については、ドイツにおいて仲介斡旋し、ソ連をして日本を了解し好意を表せしむるやうにすることは難事でない、と説き、更にドイツは、三国同盟締結の暁〈アカツキ〉において、ソ連をしてこれに加盟せしむるやうに取りはからふこととしよう、といふことであつた。
このドイツの提言は、当時の日本にとつては好都合として歓迎され、特に軍部には深い印象を刻み、永くその態度を支配した。共産革命を経たソ連を、ややともすると旧ロシアの伝統を以つて考ふる日本側は、ドイツの誇示したソ連に対する指導力を盲信した、のであつた。いはんや、ドイツ今日の戦勝の勢威をもつてすれば、ソ連を説き伏せることは難事ではあるまい、と判断して、その判断の下に日本の計画が進められた。
三国同盟条約の第五条がソ連関係の問題を全然除外してをるのも、防共協定がなほ存在してゐたり、新たに、ドイツがソ連との間に、不可侵協定を締結したりしてをる関係から来るものではあるが、政治的には、裏面において、以上のごときソ連抱き込みの希望が動いてゐたのである。【以下、次回】