礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

欧洲戦争を機に東亜の諸民族が立ち上った

2021-11-09 03:55:25 | コラムと名言

◎欧洲戦争を機に東亜の諸民族が立ち上った

 重光葵『昭和の動乱 下』(中央公論社、一九五二年四月)から「松岡外交」の章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

     四
仏印及び蘭印との経済交渉 仏印及び仏国の植民地政策は、米英の政策に比較すれば、甚だしく反動的であつた。フランスが安南、カムボヂアを征服してこれを仏国の植民地となしてより、仏印におけるフランスの政策は極端なる搾取政策であつた。独立運動の弾圧は容赦なく行はれ、住民の政治的自由は奪はれてゐた。経済的には、仏印は全然仏本国に対し従属的に取扱はれ、本国以外の外国にはまつたく封鎖されて、最も近くして有利な取引き相手たるべき日本との交通も貿易も、大なる制限を受けてゐた。東亜の一角にある仏印は、まつたく東亜から引離されて、フランス本国に直接従属の地位に組み入れられてゐたのである。インドネシアのオランダに対する関係もこれと大同小異であつた。
 民族の解放の嵐は、東亜にもやうやく吹きはじめた。欧洲戦争が起つて本国との交通が遮断せられ、且つ本国が戦争に没頭し、あるひは敵国に占領されて、植民地はまつたく孤立するに至つてから、今日まで踏みつけられてゐた東亜の諸民族は、急に覚醒して立ち上つた。独立運動の志士は、海外に遁れて、東京に来るものも少くはなかつた。日本の力が南方に延び、その実力を目前に見るに従つて、東亜民族の自覚はいちじるしくなり、民族運動は醞醸〈ウンジョウ〉せられた。これがために、これら植民地の母国は日本の態度に疑惑の眼を注ぎ、日本の経済的要求は、常に政治的意義を伴ふものと解釈した。
 日本に反対の立場を取る諸国の、日本に対する経済的圧迫は、日本をして、地理的に近き東亜方面に対し、経済活動の活路を見出すことを絶対に必要とせしむるに至つた。元来、日本がこれら欧洲諸国の植民地において、経済的のハケ口を求めることは自然の勢であつたにもかかはらず、その門戸が閉ざされてゐたのであつた。然るに、この際の日本の経済上の要求は、武力的南方進出と競合した関係上、侵略の態様と看做されて、ますます反抗を受けるのみであつた。仏印との経済交渉は、日本軍が北仏印に進駐する前から開始されてやうやく成立したが、その実行は満足なものではなかつた。また仏印と同じ状態にあつた蘭印に対しては、日本政府は、最初は小林〔一三〕商相を、ついで芳澤(謙吉)前外相を派遣して、経済関係の調節を試みさせたが、本国政府はその成果に満足せず、国内における無責任なる強硬論は、いたづらに日本の南進政策に対する国際的政治混乱に油を注ぎ、日蘭関係を悪化するに役立つたのみであつた。
 
     五
泰、仏印国境争議調停 泰国と仏印との境界は、大体メーコン河に沿つてをるのであるが、その河の沿岸地城について久しく争議があり、泰国は、フランス側が武力によつて割取したカムボヂア地域を恢復せんことを念願してゐた。その結果、欧洲戦争勃発後、遂に泰と仏印との衝突が起つて、境界地方から海上にわたつて戦闘行為が発生した。松岡〔洋右〕外相は、東亜におけるかかる戦争行為をもつて、東亜の平和に有害であるとして、両者の間 に調停の労を執ることを申出でて、その承認を得た。
 東亜における紛争について、日本が主動してその解決を実現したことは当然のことではあるが、日本の権威を示したものとして当時枢密院方面でも歓迎された。この泰、仏印の新国境も、日本の敗戦後、戦時決定せられた泰の他の国境線とともに、その効力は取り消されて、また旧国境に復帰した。
 英国は支那及び東亜問題については、米国を先頭に立てるやうになつた。欧洲戦争開始後、東亜においては米国が欧米を代表する形となり、他国はいづれも米国の指導に追随し、結合し、行動するやうになつた。かくして、米国の指導によるA・B・C・Dの日本包囲陣はますます強化せられるに至つた。
 松岡外相は、泰、仏印の国境紛争の仲介を終るとともに、独伊訪問のために渡欧の途についた(一九四一年三月十一日)。

 松岡外交の話は、このあとも続けたいと思うが、明日は、いったん話題を変える。

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