礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

海軍機、往復無着陸で孝感を爆撃(1937)

2021-11-20 00:36:13 | コラムと名言

◎海軍機、往復無着陸で孝感を爆撃(1937)

 本多熊太郎講述『世界新秩序と日本』(東亜連盟、一九四〇年一〇月)から、「現前の世界情勢と日本の立場」を紹介している。本日は、その四回目。

   其 の 三
 全地球陸地の四分の一は英国の領地であるが、此の英国の領地には三十年来日本人入る可らずの禁札が立てゐる。濠洲、カナダ、ニユージーランド皆然りである。アメリカも亦日露戦争戰爭後立法 行政凡ゆる手段を尽して日本人の入国を禁制したのである。彼等は日本の進歩発達を人智の及ぶ限りの手段で邪魔して来たのである。併し凡そ国民生活、民族生活の当然の要求の為には、民族は何時かは実力即ち武力を以てあらゆる障碍を突破せすには置かぬ、之が人間社会の常である。其の武力を制限し、自由を奪つた所に抑も〈ソモソモ〉今日の国際非常時の発端があつたのである。
 今日の日本の海軍は恐らく一般の想像以上に偉いと思ふ。実に日本の海軍に対しては世界の誰しもが畏敬し怖れてゐるのだ。此の頃の新聞に香港の英米人引揚騷ぎが報道されてゐるが、日本の海軍は黙つて居つても英米二国に錯覚を起させ神経衰弱的発作をやらせるだけの実力を持つてゐる。かういふ偉い海軍にしたのは、英米が五、五、三の比率で日本の海軍を抑へたからである。若しも英米が、日本に対し全然平等の立場で軍備制限をやらうと誘ひかけ且つ日英、日米間に不戦条約或は不侵略条約を締結しようといふ態度にでも出て居たら日本は調子に乗つて、これでもう海軍の必要はないんだ、と気を許して何んの進歩も見ず極めて時勢遅れの海軍で居つたかも知れぬ。それを日本に向つて主力艦、航空母艦、補助艦を通じて英米の六割に押付けようとした。幸に、ワシントン会議ではフランスが頑張つてくれたので補助艦だけは免れ主力艦、航空母艦にしか彼等の主張は達し得なかつたが、併し此の比率は、五、五、三であるが、実は英米で提携して日本を抑へようといふのであるから其の比率は十対三なのである。而して巡洋艦に対しては八吋〈インチ〉備砲一万噸〈トン〉を許したので帝国海軍は主力艦の不足を八吋備砲一万噸巡洋艦で補はなければならぬと云ふ考へで、英米に卒先して八吋備砲、一万噸巡洋艦を造つた。すると彼等はこれに驚いて今度はロンドンに海軍軍縮会議を開き、更に一万噸級巡洋艦(甲級巡洋艦)の六割比率、潜水艦は現有勢力二万三千噸切下げを日本に押し付け遂に手も足も出ないやうにしてしまつた。 
 ロンドン海軍条約の後産〈アトザン〉として日本国内に色々の事件が起つたことは諸君の御記憶の通りだがこれではいかんといふので制限外艦艇を出来るだけ造り、又色々新工夫を加へ一方航空兵力を増大して国防の欠陥を補ふことゝなつた。即ち量を制眼されたので質を以て補ひ、更に航空兵力の増強を図つた。その結果は如何〈ドウ〉であつたかといふと、帝国海軍は、支那事変が勃発すると〔一九三七年〕八月十四日暗夜殊に荒れてゐる中を日本本土の根拠地から漢口の先の孝感迄爆撃に行き往復二千五百哩〈マイル〉以上を無着陸で帰つて来た。私は此快報を見て英米の太平洋作戦計画は根本から改訂されなければならぬだらうと思つたのだ。英米の太平洋作戦計画は日本の海軍、航空兵力を、数量、性能、技術等においてずつと低いものと見て居つたのである。英国はシンガポールに大根拠地があり、香港を空軍根拠地と為し、更に杭州湾及江蘇の海州付近の島嶼に潜水艦及び空軍根拠地を作り日本に対する根拠地とすることを目論んで居た。それは日本の空軍を幼稚なものと見ての計画であつた。併し昭和十二年〔一九三七〕八月十四日日本海軍の飛行機が日本本土根拠地から二千五百哩無着陸で往復して来た一事を見て、香港から日本を空襲する所ではなく、英のシンガポールも、米のグアム島の根拠地も日本本土から何時やられるか分らない、日本空軍の行動圏内にあるのである。斯様〈カヨウ〉に日本海軍を強くしたのは英米である。大国間の平等権を否定して何処迄も外交手段、法律手続で日本海軍を劣弱のものとしようとしたことが反つて我方を強くした。ベエルサイユ条約で押へつけられたドイツが大陸軍大空軍を拵えたことと同じ事である。【以下、次回】

 一九三七年(昭和一二)八月一四日に、海軍機が往復無着陸で孝感を爆撃したとあるが、これを裏付ける資料はあるのだろうか。博雅の御教示を乞う。

※追記 ここでいう「無着陸爆撃」とは、1937年(昭和12)8月14日に、台北の海軍機部隊がおこなった杭州、広徳の両飛行場への無着陸爆撃を指していると推察される。その典拠は、曽我義治の「嵐の中の南京渡洋爆撃」という文章である(『別冊知性』〔秘められた昭和史〕1956年12月)。なお、この曽我義治の文章は、近々、このブログで紹介してみたいと思っている。〈2022・8・12追記〉

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