◎危うく声を出しそうになったほど驚いた(迫水久常)
『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
本日以降は、三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対し、放送タレントの三國一朗がおこなったインタビューの記録を紹介する。
―― 死んだと思っていた岡田首相が生きておられた、ということは、二・二六事件の最大のエピソードだと思うのですが、迫水さん、当時のことはご記憶ですか。
迫水 いや、もう夢のように三〇年が過ぎました。やっぱり二・二六事件というのは、日本の国としても重大事件でありましたし、私の六〇年の生涯でもきわめて重大で、もう昨日のことのように、いろいろなことをはっきり憶えております。この事件のあらましにつきましては、私も「機関銃下の首相官邸」という本〔恒文社、1964〕を書きましたし、もう一人の証言者の小坂君も「特高」という本〔啓友社、1953〕を書いておりますが、ちょうどその日、二月二六日の朝は、私は総理大臣官邸の裏門の前の私の官舎、隣が福田耕〈タガヤス〉秘書官の官舎だったわけですが……この二階に寝ておったわけです。そうすると、銃声の響く音で目が覚めたわけですね。それで官邸の方を見おろしますと、もういっぱい兵隊がはいってきておる。塀を乗り越えたりしてはいって、銃撃し始めた。それでまあ、いよいよきたかなと私は思ったわけです。
いよいよきたっていうことはですね、当時は非常に不穏な空気でして、その前の五・一五事件もあったから、なにかありはしないかなということは、われわれも考えていました。ですから非常に警戒は厳重にして、官邸の窓には鉄の格子〈コウシ〉をはめるとかいう工作は、しておったです。で、やっぱりきたなと……。まさか軍隊が何千人もくるとは思わなかったところに問題があったわけですね。それで一応銃撃の音がやみまして一段落した。
私は官邸がおかしいなと思ったとき、警視庁の特別警備隊に電話したんです。そしたらすぐいくということだった。ところが、新選組――その特別警備隊を当時新選組といっていたんですが、それがさっぱりやってこない。で、また電話したら、男の声で「こちらは決起部隊だ」というんです。それで警視庁も占拠されたんだなとわかったんです。やがて、われわれは家族一同軟禁伏態になっていたんですが、そこへ将校がやってきまして、「総理大臣のお命を私どもが国家のためにいただきました」という通告をして帰っていったんですよ。兵隊たちも裏門付近からほとんど引き揚げたんです。
それで私は隣の福田秘書官の家にひそかにいきまして、福田秘書官と「これからどうするか、親爺は殺されちゃった」というわけです。それから何度も向こうに掛け合いまして、「ぜひ、総理大臣の遺骸を礼拝させてくれ」ということを頼んだ。なかなか、それが許可にならなかったんです。それが九時ごろじゃなかったかと思いますが、やっと指揮官の栗原安秀中尉から許可になったものですから、私と福田秘書官と二人で遺骸を見にいきました。
そのとき出がけに私の妻(迫水夫人〔万亀〕は岡田啓介首相の次女である)が、「どうもお父さんは生きていらっしゃいますから、そのつもりで。」といったんですね。どういうわけでそんなことをいったんだか、未だにわかりません。
玄関からはいりますと、どこも軍靴で踏み散らされ、廊下の所どころに兵隊がいてにらんでいる。それで、総理が平生〈ヘイゼイ〉寝室にしていた部屋に遺骸があったわけです。ところか、ついてきた一人の憲兵〔篠田惣寿上等兵〕が「死骸を見てもお驚きになりませんように」というんです。で、私はひどくやられたんだなと思ったんです。で、無意識だったんですが、私と福田秘書官だけその部屋にはいって襖〈フスマ〉をしめたんです。二人だけになっちゃったんです。遺体のそばに行って黙礼して、顔をおおっていたふとんを持ち上げたら、驚いたですね。危うく声を出しそうになったほど驚いた。それは岡田啓介の遺骸じゃなくて義弟の松尾伝蔵〈マツオ・デンゾウ〉大佐の遺骸だったわけですね。〈147~149ページ〉【以下、次回】
『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
本日以降は、三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対し、放送タレントの三國一朗がおこなったインタビューの記録を紹介する。
―― 死んだと思っていた岡田首相が生きておられた、ということは、二・二六事件の最大のエピソードだと思うのですが、迫水さん、当時のことはご記憶ですか。
迫水 いや、もう夢のように三〇年が過ぎました。やっぱり二・二六事件というのは、日本の国としても重大事件でありましたし、私の六〇年の生涯でもきわめて重大で、もう昨日のことのように、いろいろなことをはっきり憶えております。この事件のあらましにつきましては、私も「機関銃下の首相官邸」という本〔恒文社、1964〕を書きましたし、もう一人の証言者の小坂君も「特高」という本〔啓友社、1953〕を書いておりますが、ちょうどその日、二月二六日の朝は、私は総理大臣官邸の裏門の前の私の官舎、隣が福田耕〈タガヤス〉秘書官の官舎だったわけですが……この二階に寝ておったわけです。そうすると、銃声の響く音で目が覚めたわけですね。それで官邸の方を見おろしますと、もういっぱい兵隊がはいってきておる。塀を乗り越えたりしてはいって、銃撃し始めた。それでまあ、いよいよきたかなと私は思ったわけです。
いよいよきたっていうことはですね、当時は非常に不穏な空気でして、その前の五・一五事件もあったから、なにかありはしないかなということは、われわれも考えていました。ですから非常に警戒は厳重にして、官邸の窓には鉄の格子〈コウシ〉をはめるとかいう工作は、しておったです。で、やっぱりきたなと……。まさか軍隊が何千人もくるとは思わなかったところに問題があったわけですね。それで一応銃撃の音がやみまして一段落した。
私は官邸がおかしいなと思ったとき、警視庁の特別警備隊に電話したんです。そしたらすぐいくということだった。ところが、新選組――その特別警備隊を当時新選組といっていたんですが、それがさっぱりやってこない。で、また電話したら、男の声で「こちらは決起部隊だ」というんです。それで警視庁も占拠されたんだなとわかったんです。やがて、われわれは家族一同軟禁伏態になっていたんですが、そこへ将校がやってきまして、「総理大臣のお命を私どもが国家のためにいただきました」という通告をして帰っていったんですよ。兵隊たちも裏門付近からほとんど引き揚げたんです。
それで私は隣の福田秘書官の家にひそかにいきまして、福田秘書官と「これからどうするか、親爺は殺されちゃった」というわけです。それから何度も向こうに掛け合いまして、「ぜひ、総理大臣の遺骸を礼拝させてくれ」ということを頼んだ。なかなか、それが許可にならなかったんです。それが九時ごろじゃなかったかと思いますが、やっと指揮官の栗原安秀中尉から許可になったものですから、私と福田秘書官と二人で遺骸を見にいきました。
そのとき出がけに私の妻(迫水夫人〔万亀〕は岡田啓介首相の次女である)が、「どうもお父さんは生きていらっしゃいますから、そのつもりで。」といったんですね。どういうわけでそんなことをいったんだか、未だにわかりません。
玄関からはいりますと、どこも軍靴で踏み散らされ、廊下の所どころに兵隊がいてにらんでいる。それで、総理が平生〈ヘイゼイ〉寝室にしていた部屋に遺骸があったわけです。ところか、ついてきた一人の憲兵〔篠田惣寿上等兵〕が「死骸を見てもお驚きになりませんように」というんです。で、私はひどくやられたんだなと思ったんです。で、無意識だったんですが、私と福田秘書官だけその部屋にはいって襖〈フスマ〉をしめたんです。二人だけになっちゃったんです。遺体のそばに行って黙礼して、顔をおおっていたふとんを持ち上げたら、驚いたですね。危うく声を出しそうになったほど驚いた。それは岡田啓介の遺骸じゃなくて義弟の松尾伝蔵〈マツオ・デンゾウ〉大佐の遺骸だったわけですね。〈147~149ページ〉【以下、次回】
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