礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

原田慶吉教授、米軍兵士に殴られ重傷を負う

2025-02-13 01:39:44 | コラムと名言
◎原田慶吉教授、米軍兵士に殴られ重傷を負う

 川島武宜『ある法学者の軌跡』(有斐閣、1978)から、第Ⅴ部「終戦前後」の第二章「終戦直後の研究室生活のことなど」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

      ⑶ 原田慶吉先生のこと
 終戦直後の研究室のことを語るとき、私は、原田慶吉先生の悲惨な出来事を悲しみと憤りの気持をこめて思い出します。
 まだ、当時は一般の栄養状態がよくなかったせいか、日本全国にぼう大な数にのぽる結核患者があったそうですが、東大の法学部研究室でも次から次へと結核患者が発生し、私もその中の一人でした。しかし、わが法学部での最も悲しむべき犠牲は、あのローマ法の権威、原田慶吉先生でした。先生も、敗戦後長いあいだ研究室に泊りこんで不自由な生活をつづけておられましたが、その後自宅から通われるようになり、たしか昭和二一年三月ごろの或る夜おそく研究室を出て(先生は、毎日夜おそくまで研究室で研究に従事しておられました)、「お茶の水」の駅まで歩いてゆく途中、通りかかった米軍のトラックを運転していた軍服の男に道をたずねられ、それに答えた先生はその助手台に乗せられ、鈇のスパナのようなもので頭をなぐられて、意識を失い、気がついたら夜寒の路傍にほうり出され、懐中の金を奪われていた、というのです。先生は、苦しいからだをひきずって東大病院にたどりつき、手当を受けられたのですが、それが原因となって長い間病身となられました。未だ働きざかりの年齢で先生が急にこの世を去られたのも、その時のけがに帰因しているのではないかと思われますが、当時は占領軍の暴行を口にすることをはばかり、誰もこの事件を公けにしないで、言わばヒソヒソ話に終ってしまったのです。かけがえのない大学者をこのような経緯で失ったことは、まことに痛ましい限りで、今もなお、それを思い出して、戦争というものの悲惨さを痛感させられるしだいです。〈202~203ページ〉

 原田慶吉(はらだ・けいきち、1903~1950)は、法制史学者、東京大学法学部教授。ウィキペディア「原田慶吉」の項によれば、原田教授は、1947年(昭和22)1月、東大赤門付近で、駐留米軍兵士の強盗に襲われ、脳挫傷の重傷を負った。1950年(昭和25)4月、挫傷の後遺症による極度の抑欝症を発症、同年9月、自宅で療養中に縊死したという。

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