◎会長と理事が中古トラックにヤミ米を積んできた
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介を紹介している。本日は、その二十四回目で、第二部「農地改革」の6「開拓組合の設立」を紹介している。この章の紹介としては二回目。
このころには全村一本の農業会があって、統制経済の末端機関としての役割を果していた。これが解体して新らしい農協法による組合が生れることになったとき、村には微妙な問題が起って来た。農業会は戦時中のような活潑な動きは出来なくなっていたには違いない。しかしまだ統制物資の種類が多く、ここに拠るものには多くの特典があった。ここの専務はすでに遠藤賢次郎去り、さらにもう一人変って、いまは農地委員長の岩泉儀信が経営に当っていた。彼とその職員たちは、農業会を看板だけ塗りかえて、農協にして居坐りたいのだ。農協は私たちがつくれば、地主側でも作るのが当然で、二本になるのは必至に見えた。農業会の人々は地主側に属するのだが、二つに割れれば経営が困難になる。そこで本来の性格はしばらく棄てて、新組合の一本化に狂奔せざるを得なくなったのである。しかし、この残骸を引継ぐことは、私たちには全く魅力がなかった。というのはこの村の二大産物の一つである木炭はまだ農業会で扱っていたが、もう一つの牛乳は別に引き離されて酪農組合の取扱いになっていた。まともな収入は牛乳の取扱い手数料だけなのに、それで全職員を養うのは、酪農家だけが犠牲になることでつまらない、というのが横山らの意見で、この部門を独立させて自分らだけのものにしたのである。この思想がいつまでも一部の人々の間に残って、組合発展の障害をなしている。
木炭は戦時中は供出だったらしく、農業会は倉庫一ぱいの貯蔵を残していた。このころ、農業会は木炭運搬のために中古品のトラックを購入した。こんなものは盛岡附近でも買えるはずなのに、当時農業会の理事をしていた男の女婿が、その方面のブローカーで、彼の世話で東京から買うことになった。会長以下四、五人の人間が一台の中古トラックを買いに東京まで出かけ、帰りには颱風に逢って一ノ関でひっかかったりして、約一カ月を費して帰って来た。途中で理事が二俵、会長が一俵のヤミ米を積んで来たというので、当時の村民に疑惑と羨望を与えた。このトラックは当時二十万円足らずの品と見られたが、帳簿には六十数万円として載せられていた。ともあれ、この村にトラックがはいったのは村史始まって以来最初の出来事である。農業会の倉庫からは、こののち毎日木炭が運び出され盛岡方面に向った。農業会に働く人々の好景気は,こうしてしばらくつづいた。帳簿価格は前の供出値段だったろうが、売り捌くのはヤミ値であった。その差額を農業会の利益として計上することは、統制法違反だったに違いない。【以下、次回】
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