◎書類は一戸の理髪店で発見された
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介を紹介している。本日は、その二十五回目で、第二部「農地改革」の6「開拓組合の設立」を紹介している。この章の紹介としては三回目(最後)。
こうして喰い荒らされた「かす」を引きうけることは、われわれには堪えられぬことだったし、それよりも職員たちを引継がねばならぬということが、一層嫌な問題だった。新らしい酒は新らしい革ぶくろに盛らねばならない。私たちは農業会の人々の申し出を蹴った。このとき職員の一人が、自棄〈ヤケ〉になって私に吐いた台詞〈セリフ〉を今でも覚えている。「われわれは自分の月給が欲しくて一本になれというのではない。金がほしけれぁ、トラックに木炭積んで盛岡に出れば、途中で三度に一度捕まったとしても、月給なんかおかしくて。」
こうして私たちは二つの組合をもつことになり、地主側も農業会の役職員と財産、負債を継承した江刈農協と酪農組合をもつことになった。このとき、新らしい組合の許可を一日でも早くとって相手の鼻をあかそうという競争が起った。こちらでは役場で助役らが徹宵〈テッショウ〉書類を作り、私がそれを地方事務所に持参することになった。ところが、その日葛巻町の或る地主が村内にもっていた山林と、村が葛巻にもっていた村有林の交換を終って、その地主宅で祝宴があった。私はその酒宴を半ばにして出、一戸〈イチノエ〉の町で汽車に乗り替えたとき、気がついたら肝腎の書類がない。村に電話して、バスの中まで探させたが、ないという。結局一戸の理髪店で発見されたが、こんなことでさえ当時は敵の物笑いとなり、味方にも重大事であったのだ。こうした苦労をした末、許可されたのは、二月の或る日両者同日付であった。
この日より開拓組合は敵の憎悪の的となり、開拓という言葉は地主たちのタブーとなった。江刈村農協は地主側からは貧乏組合と呼ばれた。出資金は七万三千円ばかりで、開拓組合は無出資で発足した。
私たちにとっての最大の困難は、組合の職員を見つけることであった。向うの組合には、質はともあれ、人員は揃っている。こちらの陣営には、文字を書けるものを見出すことさえ至難の業〈ワザ〉だった。組合長は、農協の方は農民でなければならないというので、村田という男が選任された。開拓組合長には、開拓公社にいた佐藤信夫という盛岡高農〔盛岡高党農林学校〕出の青年をつれて来た。彼は乳業工場に働くことを志望していたが、開拓公社の計画は挫折し、私は村で独自にやる計画を棄てていなかった。それで工場が出来るまで村に来て中学校の教諭をしながら、開拓組合をやって貰うことにした。開拓組合では、彼の給料を支払う資力もなかったので、これは私の苦肉の策であった。
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