◎ここの校長は地主派で敵に通じる恐れがあった
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介を紹介している。本日は、その二十三回目で、第二部「農地改革」の6「開拓組合の設立」を紹介する。例によって、何回かに分けて紹介する。
6 開拓組合の設立
この日をもって、敵は全貌を現わした。私も決意を新たにしてこれに対さねばならなかった。小作者たちの団結はまだなかった。この際困ったことには、小作地の解放と異なり、未墾地には関係者の数が多く、終には八十五名にも達した。大は四百町歩近くより、小は八畝三歩〈ハッセサンブ〉に至るまで、解放面積は区々であるが、とられる気持は小さいほど苦しいのが現実であろう。中には貧しい自作農でただ一つの薪炭林が解放対象となったものもあり、それがまた私の小学時代の同級生であったり、親類であったりするのだ。おまけに、自分が小作の貧農でありながら、勘違いして地主側につき、解放反対を叫んで、村を右往左往するものも少なくない。これは勘違いよりも欺されたのだろう。自分の借用している牧野なり、薪炭林が解放の対象となった場合、「お前に貸してある土地が取り上げられるのだ」という地主の言葉の力の方が、「一旦は国家に買収されるが、あとで優先的にお前に配分するように努力する」という私たちの言葉よりも、直接的で効果的なのだ。
農民組合の事実上の解体も、こうした事情の反映であったわけだ。したがって、別の団体を創り、本当の味方を組織して敵に対することが、目前の急務となって来た。そこで、現実に即して開拓組合をつくり、その役割を果させることにした。創立準備の打合せ会をしばしばもって、情報の交換もし合った。五日市部落の附近は一番結束していたことは前に述べたが、その他にも一名か二名の同志のない部落は皆無であった。従来の農民組合は解散しようかという案もあったが、そのままにして、組合長はじめ希望するものは個々に新組合に入れることにした。こうした集会は江刈小学校でする方が私たちには便利だったが、ここの校長は地主派であり、すべて敵に通じる恐れがあったので、一里以上もある五日市小学校を使った。組合は開拓組合だけで十分であったが、当時の農協法などの関係で、別に江刈村農業協同組合という、いわゆる一般農協も一つ創ることになった。もとより発起人たちも同じグループだったし、組合員も出来て見たら殆んど皆重複していた。【以下、次回】
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