◎高田保馬の「基礎社会衰耗の法則」に注目した坂上信夫
昨日、坂上信夫の『土地争奪史論』(大同館書店、一九二二)の本文の冒頭、すなわち、「序説」の冒頭の二ページ弱を紹介した。
その少しあと(三ページ)に、次のような一節がある。
所有の観念は、先づ自他殊別の観念が明瞭になることを第一の条件とするが故に、利害休戚を共にするものゝ群団と異る自余の群団との接触と葛藤に基き、他人の侵略によつて自らを守るに因り始めて発生するであらう。
ここで坂上のいう「群団」とは、今日の言葉で言えば、「共同体」ということになろうか。さらに、その少しあと(四ページ)には、次のような一節がある。
素より〈モトヨリ〉その葛藤の単位となるものは一の群団を基準とするものであつて、決して個人ではない。故に一の群団の中に在つて個人ば唯その一族の分子として考へられるだけで、絶対的な意味の人格の独立性を認められない。而してその群団は、経済的にも、政治的にも、また宗教的にもそれだけで已に〈スデニ〉完全な一己〈イッコ〉の共産体としての機能を備へたものであつて(*)、土地は彼等の生活そのものゝ為に存在する共有の自由な使用貨物〈カブツ〉に過ぎなかつたらしい。
引用文中の(*)は、注を示す記号で、同ページの脚注に、「*高田文学士論文基礎社会衰耗の法則参照」とある。この「高田文学士」が、高名な社会学者・高田保馬〈タカタ・ヤスマ〉の若き日の姿であることは言うまでもない。坂上は、こうした社会学者の論文も摂取しながら、『土地争奪史論』を書いていたわけである。
ところで高田保馬が、「文学博士」となるのは、一九二一年(大正一〇)のことである。ということは、高田は、博士になる前に、「基礎社会衰耗の法則」という論文を発表しており、坂上信夫が、その論文に注目していたということになる。【この話、続く】
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