礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ヴァイマール憲法は改定されたのか破棄されたのか

2015-09-25 04:08:16 | コラムと名言

◎ヴァイマール憲法は改定されたのか破棄されたのか

 昨日の続きである。青木茂雄さんの投稿、ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』の感想、あるいはケルロイター論を紹介する(その二)。

ヴァイマール憲法は「改定」されたのか「破棄」されたのか?  (2)
 ─ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』を読む─  青木茂雄

【「ドイツ憲法大綱」の内容】
 ケルロイターは「ドイツ憲法論」(『ナチス・ドイツ憲法論』)のほかに、1933年に「一般国家学大綱」(Grundriss der Allgemeinen Staatlehre、 日本語訳なし)、1936年に「ナチス世界観における民族と国家」(Volk und Staat in der Weltanschauungdes Nationalsozialismus、日本語訳なし)を書いている。
「ドイツ憲法論」は憲法論というよりはむしろ、歴史論であり運動論であり、“憲法大綱”としての一貫性には乏しく、一見すると恣意的な事項の羅列に終始している。まさに「噴飯物」の印象である。目次の章立てと内容のタイトルをまず列記する。

第1章 政治的基礎
「政治的なるものの本質」「ドイツの自由主義的民主政とマルクス主義」
「ナチスの世界観的・政治的基礎」「ナチス法治国家」「ドイツ憲法の本質と構成」
「ドイツ国法学の任務と方法」
第2章 歴史的基礎
「旧ドイツ帝国」「ドイツ連合」「ドイツ地方国家に於ける憲法的発展」
「フランクフルト国民会議」「北ドイツ連合と帝国建設」「ビスマルク憲法の根本思想」
「ワイマール憲法の成立」「ワイマール憲法の政党的連邦国家」
第3章 法源と標章
「法源」「標章と旗」
第4章民族と国民
「民族と国民」「ライヒ国籍と公民権」「基本権と基本義務」「ライヒ国土」
「国民的民族集団」
第5章ドイツの政治的統一の形成
「ドイツ支邦の独立国家性」「ライヒ、ラント及び自治団体の政治的均制」
「1933年4月7日の第二均制法」「1934年1月31日の新構成法」
「ライヒ建設の進展」
第6章ドイツ指導者国家の構成
「指導の基礎」「ライヒ宰相とライヒ政府」「ドイツ国家の元首」「民族と指導」
「ドイツ指導者層」「ナチス党(運動)」「官吏」「国防軍」
第7章指導の形式
「権力分立」「立法」「公けの行政」「司法」
第8章経済的、宗教的、及び文化的民族力の国法的編成
「国家と経済」「職能的団体構成」国家と教会「国家と文化」「教育と学問」

 以上が目次とタイトルである。1、2章は「ナチス憲法」体制成立の歴史的前提、3章以下が「ナチス憲法」体制の説明となっているが、それでは「ナチス憲法」とは具体的に何を指すのか。
 ケルロイターによれば、1933年から1935年までの間に「指導者国家」として制定された10の法令がすなわち憲法である。彼は成文憲法を持たなかったイギリスの例を引き合いに出しながら、次のように述べる(礫川ブログではすでに1941年「日本国家科学体系6法律2」所収の大谷美隆「ナチス憲法の特質」の中に引用されていた10(引用では「11」)の法令を指摘されているが、煩を厭わず以下に列記する。[ ]内は私の補いである)。

「この[イギリスのように成文憲法のない]様な憲法規定は、ドイツ指導者国家の国法的発展の中にもまた見られる。それをナチス国家の基本法と称することを得る。それはその憲法的生活の基礎をなし、且新しい国家建設の大綱をなすものである。今日の発展段階に於ては、この意味に於て次の諸法律を、指導者国家の憲法規定とすることができる。即ち─
1.1933年3月24日の国民及び国家の艱難を除去するための法律(所謂授権法)。更に1937年3月24日の国民及び国家の艱難を除去するための法律の有効期間延長のための法律。
2.1933年7月14日の国民投票法。
3.1933年12月1日の党と国家の一体を保障するための法律。
4.1934年1月30日のライヒ新構成法。
5.1934年8月1日のドイツ・ライヒの元首に関する法律。
6.1935年1月30日のライヒ代官法。
7.1935年3月16日の国防軍構成法。
9.1935年9月15日のニュルンベルク法。即ち国旗法、公民法、ドイツの血とドイツの名誉との保護のための法律(血の保護法)。
10.1937年1月26日のドイツ官吏法。
これらの法律から、如何に民族と結合せる指導の意思により、憲法が民族的及び国家的必要の中から有機的に生成し、そして古い国家組織が排除せられたかを知り得るのである。」(『ナチス・ドイツ憲法論』27ページ)

 この「憲法」もどきは、指導者(フューラー)の「指導」によって「民族的及び国家的必要」によって不断に変更され、「発展」していく、とされるのである。

「『そして終わりに、今や国家的に養成されたわが民族の現実生活を、一つの憲法によって不断にそして永久に確定し、それを全ドイツ人の不滅の基本法にまで高めることが、将来の課題となるのである』(アドルフ・ヒットラー、1937年1月30日)。ここで問題となるのは、有機的な憲法発展の形式的完成ということである。(略)指導者国家に於ける憲法の構成及び完成の態様と方法に対しては、フューラーによって確定される、ドイツの民族・及び国家生活の政治的必要だけが、決定力を持ち得るのである。」(28ページ)

「一つの憲法によって不断にそして永久に確定し」(原文は不知)などとはおよそ無理無体な要求である。「不断にそして永久に」とは「確定」しない、「確定」できないことの謂である。このようなヒットラーの演説用の無理無体なレトリックの理論化を請け負ったのがこのケルロイターである。そして、さしあたって先述した10の「法律」を「憲法」と称したのである。フューラーの「指導」によって永久に「発展」していくものなどはいかなる意味でも「憲法」ではないのである。
 次回は、1933年3月24日の「国民及び国家の艱難を除去するための法律(所謂授権法)」を以て「ドイツ新憲法」と最初に断じたカール・シュミットについて書く。

*このブログの人気記事 2915・9・25(1・9・10位が珍しい)

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ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』を読む(青木茂雄)

2015-09-24 04:10:27 | コラムと名言

◎ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』を読む(青木茂雄)

 映画評論家の青木茂雄さんが、目利きの古書マニアであって、ケルロイターの『ナチス・ドイツ憲法論』も架蔵されていることは、このブログでも紹介したことがある。その青木さんから、一昨日、ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』の感想が送られてきたので、本日はそれを紹介する。

ヴァイマール憲法は「改定」されたのか「破棄」されたのか? (1)
  ─ケルロイター『ナチス・ドイツ憲法論』を読む─  青木茂雄

【ケルロイター著『ナチス・ドイツ憲法論』について】
 このブログでも話題になったケルロイター著『ナチス・ドイツ憲法論』(矢部貞治・田川博三訳、岩波書店、昭和14年発行)は、数年前にどこかの古書店で入手し、そのまま書棚の奥に放置したままにしておいた。これを機会に読んでみたいと思ったが、どいうわけか肝心のその本がなかなか見つからない。書棚や部屋の隅などをあちこち捜し回ったあげく、先日ようやく捜し出した。
 表紙の裏に私が鉛筆書きした購入年月日は2010年10月5日で、購入先は挟み込んだレシートから神保町の「20世紀記憶装置@ワンダー」、購入価格は1575円であったことがわかる。同書店の側道沿いの外壁に並べられている店晒しの書架にあったと思う。購入の動機はただ珍しかっただけで、内容はおそらく時局迎合の噴飯物で、時間をかけて読むほどのことはないだろうと思って、ほうり出しておくうちに、いつのまにか書棚の奥へと流れて行ったものと思われるが、取り出してながめてみると岩波書店発行の歴(れっき)とした学術書で、紙質も上等である。
『ナチス・ドイツ憲法論』は日本語訳の題名であって、それでは原題は何であるかを捜したが、実は極めて不親切なことであるが、この訳本にはその原題が記されていないが、国会図書館目録には“Deutsches Verfassngsrecht, ein Grundriss von Otto Koellreutter 3.druchgesehene und erganzte Aufl. Berlin: Junker und D nhaupt,1938" (「ドイツ憲法論」 オットー・ケルロイターによる大綱 3訂増補版 ベルリン ユンカー・デュンハウプト 1938年)と8月24日付け礫川ブログで紹介されている。
 初版の発行年である1935年7月の原著者序文を読むと「ドイツ憲法大綱の刊行に就ては、恐らくその理由を説明するの必要はないであらう。それは又尚早でもない。けだし、ドイツ指導者国家の大きな憲法的輪郭は、今日に於ては既に確立されているのである」とある。ここで注目されるのは、1935年時点で「大きな憲法的輪郭は」「既に確立されている」と書いていることである。
 著者のオットー・ケルロイターは、この1935年の初版執筆時点で、ヴァイマール憲法に代わる新たな憲法体系が樹立されている、つまり「改定」の域を越えて、法学的には「革命」が達成されたと考えていたことと判断される。このことの意味については後に検討する。
訳者矢部貞治(やべさだじ)は、東京帝国大学法学部所属の気鋭の政治学者であり、当時としてはむしろリベラルな学風であったという評価もあるが、訳者序文によるとケルロイターとは矢部のミュンヘン大学留学時代以来の親交があったようである。共訳者の当時東京帝国大学法学部学生であった田川博三(たがわひろぞう)はこの時期(1937年~38年)に日独交換留学生としてミュンヘンに滞在し、矢部の紹介によりケルロイター教授に就いてドイツ国法学の研究を進めていた。
 田川はバイエルンの山村でこの「ドイツ憲法大綱」の日本語訳に没頭し、できあがった草稿を、ケルロイターが1938年11月上旬に来日した際に持参し矢部に渡した。ケルロイターは日独交換教授としてその後も滞在し、おそらくその年の11月25日の日独文化協定成立ともかかわったものと思われる。ちなみに、前年1937年2月には日独合作映画『新しき土』(アーノルド・ファンク監督)が日本公開されている。
 ケルロイターから翻訳の草稿を手渡された矢部は田川の友人の磯田という東京帝国大学法学部学生の協力を得て、草稿の「改変と添削」を行い1939(昭和14)年2月に原稿を完成させ、同年5月10日に岩波書店から刊行した。(訳者序による。) 
 ところで、1939(昭和14)年とはどういう年であったか。岩波版『近代日本総合年表』で調べてみると、1月4日に近衛内閣が総辞職し、翌5日には平沼騏一郎内閣が成立し、6日にはさっそくドイツ外相が「三国同盟」案を日本に対して正式提案している。このように日本は全体として枢軸国側への傾斜をいっそう深めていった年であった。
 文化面でも《東亜共同体》が盛んに論じられ、7月には「新ドイツ国家学体系」が日本評論社から刊行開始されている。
 次回は、「ドイツ憲法論」の内容を検討する。

*このブログの人気記事 2015・9・24

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日本の「独ソ調停」外交が意図していたもの

2015-09-23 04:36:17 | コラムと名言

◎日本の「独ソ調停」外交が意図していたもの

 昨日の続きである。大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)から、「東条内閣の対ソ工作」の節を紹介している。
 重光葵外相は、なぜ、「独・ソ戦争」の調停を申し入れたのか。この調停は、何を意図していたのか。もちろんこれは、重光外相個人の意思に基づく外交ではない。東条英機内閣の総意に基づく外交であった。
 大屋久寿雄の説くところを聞こう。昨日、引用した部分のあと、次のように続く。

 太平洋戦線においては、表面的には五月のアツツ島全員玉砕、八月のキスカ島完全撤収以外に大した動きもないかのごとくであつたが、戦勢引続き我に不利であることは当局者の熟知するところであつた。欧洲でば東部戦線の枢軸軍はその「戦略的後退」において止まるところを知らず、また敗けに敗けた北阿の枢軸軍ば五月十三日に至つて遂に完全降伏し、続いて米・英・仏軍のシチリア島上陸、そして八月にはいはゆるバドリオ事件によつて、イタリアは逸早く戦線から脱落し去つたのであつた。
 このときビルマに恰も葬式のやうなうら淋しい独立式典を挙行せしめ、続いて十月には、フイリピンにも「熱意なき独立祭典」を挙行せしめんとしてゐた日本政府は、ビルマの独立とフイリピンの独立といふ二つの「歴史的な行事」の寸隙を得て、慌しくも「独・ソ戦居中調停」といふ大胆な仕事を企てたのであた。勿論その狙ひは、もしこれが成功すれば、一には東部戦線の重大危機から解放されたドイツをしてその全力をもつて、日・独共同の敵であり、いまや完全に欧大陛に足場を得た米・英軍撃滅に立ち向はせることができるとともに、二にはわが陸軍の最精鋭部隊である関東軍兵力の相当部分を必要なる他戦線に転出できるかも知れない、といふにあつたこと明瞭である。
 しかし、松岡洋右氏の日・ソ中立条約以来、わが政府としてははじめての試みともいふべきこの対ソ積極外交は脆くも〈モロクモ〉失敗に終つた。
 帝国政府の提案はソヴェト政府とドイツ政府との両者に対して同時に行はれたのであるが、ソヴェトに対しては、帝国政府特使として然るべき人物をまづモスクワに、それよりベルリンに派遣して、能ふべくんば独・ソ間の和平を斡旋したいと思ふが、ソヴェト政府の意向はどうかといふ話を持ちかけたのであつた。これに対して、ソヴェト政府の答へは極めてにべもないもので、独・ソ間には和平の余地は全然ないとの理由でかかる特使の派遣をきつぱり拒否して来たのである。またドイツ政府に対しては、駐独大使大島浩中将をして、同様意向を探らせたところ、フオン・リツベンドロツプ外相はまづ、日本のかかる提案はソヴェト政府との諒解の基いてなされたものかどうかといふ点を訊した〈タダシタ〉上で、さうでないことが判明するに及んで、極めて冷淡な態度を示すに至り、これも結局そのままに葬り去られたのであつた。

 ここまでが、「東条内閣の対ソ工作」の節であって、このあと、「小磯内閣の対ソ工作」の節に続くが、その紹介は数日後とする。明日は、「投稿」を紹介させていただく予定である。

*このブログの人気記事 2015・9・23(10位に珍しいものが入っています)

 

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重光葵外相、独ソ戦の調停を試みる(1943)

2015-09-22 03:04:55 | コラムと名言

◎重光葵外相、独ソ戦の調停を試みる(1943)

 一昨日に続き、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介してみよう。
 この本(パンフレット)でいう「和平工作」とは、「対ソ工作」の意味している。本日は、「東条内閣の対ソ工作」の節から、その一部を紹介してみよう。

 当時「輝かしき大戦果」の一つとして国民に告げ知らされたミツドウエー海戦の真相が、実は帝国海軍にとつていかに致命的な大失敗であつたかは今日既に明瞭である。また昭和十八年〔一九四三〕二月九日、帝国議会第八十一通常議会の衆議院予算総会の席上、陸軍省軍務局長佐藤賢了少将の口から「南太平洋方面の我陸軍諸部隊は各要戦戦略の設定を完了したので、ブナ、ガダルカナルの諸島から他へ転進した」云々と堂々国民代表の前に発表きれたその「転進」の内容が「いかに惨めな殲滅〈センメツ〉的打撃の後の見る影もなき敗北的脱出でしかなかつたかも、今日、これまた蔽ふ〈オオウ〉ところなき事実となつてゐる。
 太平洋戦局の上に齎らされた〈モタラサレタ〉かうした重大な変化、即ちわが進攻・攻撃力の逓減〈テイゲン〉と敵の反撃力の全面的展開とは、当時の東条内閣によつてどんな風に判断されたか。
 一方、欧州戦局にあつては、華々しかつたドイツ軍のコーカサス作戦は、一九四三年(昭和十八年)一月末、遂にかの有名な「スターリングラードの悲劇」となつて終り、同じく一時華々しい快速進撃を続けた北阿〔北アフリカ〕攻略のロメル軍は、これまた同年一月末トリポリを撒収して北阿からの総敗退を開始し、かくて、彼此〈カレコレ〉相俟つて独・伊軍はここにその全面的戦線崩壊の第一歩を踏み出したのであつたが、当時の東条内閣はかかる世界戦局の推移をどう判断したのであつたか。
 東条内閣は明かに「戦勢我に非」と見たのであつた。しかし、勿論いまだ望みなしとは考へなかつた。ただ、太平洋・欧洲の両戦線におげる枢軸軍戦勢の一斉後退が、わが与国、即ち中華民国南京政府その他の大東亜諸民族に及ぼすべき重大な悪影響に対する措置の如何〈イカン〉により、その結果はまさに決定的なものとなり得るだらうといふ点については、これをより強く認識したのである。
 昭和十八年一月以降、日・華同盟条約の締結に伴ふ対華新政策の策定、泰国〔タイ国〕に対する領土の割譲、スバス・チヤンドラ・ボーズ氏の自由印度運動絶対支援、ビルマ、フイリピンへの独立賦与〈フヨ〉、大東亜会議の開催等、これら一連の政治攻勢は、明瞭に右の認識に基いて打たれたいはば逆手であつた。武力の面で漸次失はれんとしつつある帝国の威信を政治の面で補ひ、もつて後図〈コウト〉を策せんとする積極性を、それは内蔵してゐたのである。
 これらの事実について、その一々を実証してゐる余裕はないから、ここでは単に結論だけを記すに止めるが、当時洋の東西に亘つて悪化の一途を急激に辿り始めた枢軸側の戦局に対処する政治的方策の一つとして、東条内閣が打つたこれら一連の布石の中でも、今次の戦争それ自体の運命と、当時にあつてはなほ些か間接ではあつたが、既に相当不可分の関係を有したものとして、われわれが今日見逃すことのできないものに、昭和十八年九月、東条内閣重光外相の手で企てられた独ソ戦に対する居中〈キョチュウ〉調停申入れといふ一件がある。【以下、次回】

 東条内閣の重光葵〈シゲミツ・マモル〉外相が、一九四三年(昭和一八)九月に、「独・ソ戦争」の調停申入れをおこなったことは、今次の戦争の「運命」と不可分の関係を有するものだった。ただし、その当時にあっては、その関係はなお、「間接」的なものでしかなかった。――大屋久寿雄は、このように言おうとしているようだ。
「居中」とは、間に入っての意。ここでは、ドイツとソ連の間に入って、という意味である。

*このブログの人気記事 2015・9・22

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結城無二三と結城禮一郎

2015-09-21 03:59:42 | コラムと名言

◎結城無二三と結城禮一郎

 先月一八日、鵜崎巨石氏のブログで、「結城禮一郎著『旧幕新撰組の結城無二三』」と題する記事を拝読した。この本(中公文庫、一九七六)は、持っているが読んでいなかった。持ってはいるが、どこかにしまい忘れて、すぐには出てきそうもなかった。
 ところが、たまたま昨日、発見した。
 一読して、非常に興味深い内容であった。日本の民俗学の祖とされる山中笑〈エミ〉=山中共古〈キョウコ〉が出てきたのが意外だった。ちなみに、主人公の結城無二三〈ユウキ・ムニゾウ〉も、山中笑も、明治期、キリスト教の伝道にたずさわっている。
 本書の著者・結城禮一郎は結城無二三の子である。巻末の「解説」を担当している森銑三によれば、結城禮一郎は、「文の人」であり、「弁の人」でもあったという。結城禮一郎の講演を聞いた桃川如燕という講談師が、「かようなお話のお上手な方のあるのを、これまで存じませんでした」と言ったという話がある、という。
 結城禮一郎は、もともと「弁の人」であって、その「弁」を活かして、「文」にも長ずるようになったのではあるまいか。もちろん、その逆もありうるが、とにかく、本書『旧幕新撰組の結城無二三』の「語り口」は傑出している。この本は、内容もよいが、それ以上に「弁」がすばらしい。
 サンプルとして、本書の「まえがき」に相当する文章を引用してみる。

お前たちのおじい様
 ――旧幕新撰組の結城無二三――
   お父さん 手記
 お前たちのおじい様がお亡くなりになってからもう十三年に在る。建ちゃんや英五さんは無論お顔をも知らないし、閑野〈シズノ〉や平四郎もおそらく記憶【おぼ】えてはいないだろう。十年といえば一ト昔〈ヒトムカシ〉だ。その時「注射はもう御免だ、痛いばかりで無益【むだ】だから」とおっしゃったのを、「今慎太郎がまいります、待っていて下さい」と、申し上げたら、「そうかそれじゃアもう一本やるかなア」とお笑いになり、そして慎太郎が来ると「おお慎太郎か、よく来た、俸くなれよ」とおっしゃって手をお握りになった、その慎太郎すら今では記憶がかすかになっていることだろう、それで今日は一つお父さんが、おじい様のことをゆっくり一同【みんな】にお話して上げようと思う。
 おじい様は偉い方だった。そしてまた善い方だった。実際お前たちが知っておくべき方、知っておかねばならぬ方なのだ。世が世ならば一国一城の主〈アルジ〉ともなるべき人で、しかもそれが失敗したからといって、少しも天を怨まず人を咎めず〈トガメズ〉、静かにその運命を楽しみながら、このお父さんのために残りの生涯の全部を犠牲にして下さったのだ。お前たちが大きくなってもし少しでもお父さんに感謝すべきことがあるとするなら、それは当然すべておじい様に振り替えらるべきもので、お父さんの今日あるはまったくおじい様のおかげ、おじい様の大きな愛を感ずることがなかったなら、お父さんは本当にどんなになっていたか分らないのだ。
 足らないところもあったろう、間違ってたところもあったろうが、しかしその一生を通じて、常に「爾【なんじ】の隣を愛し」身を殺して仁をなしていた点については、おじい様に接触した人のほとんどすべてが一様にこれを認めこれを徳としている。お前たちはこういう人格をそのおじい様に持ち得たことを本当に名誉と思わねばならぬ。どれ、それではそろそろお話を始めよう。

「十年といえば一ト昔だ。」のあと、いきなり、「その時」という言葉が来る。これは、「文」を書きつけている者には、できない芸である。臨終のときということはわかるが、これは「文脈」でわかるのではなく、「弁脈」でわかるのである。結城禮一郎が、もともと「弁の人」であったと思う所以である。
 参考までに、原本(玄文社、一九二四)ではどうなっていたかも紹介したい。原本は、総ルビになっているが、ルビは省略する。

お前達のおぢい様
 旧幕新撰組の結城無二三
   お父さん 手記
 御前達の祖父様が御亡くなりになつてから最早十三年になる。建ちやんや英五さんは無論御お顔をも知らないし、閑野や平四郎も恐らく記憶えては居ないだらう。十年と云へば一ト昔だ。其の時『注射はもう御免だ痛いばかりで無益だから』と仰やつたのを、『今慎太郎が参ります待つて居いて下さい』と、申上げたら、『左様か其れぢやァもう一本やるかなァ』と御笑ひになり、而して慎太郎が来ると「おゝ慎太郎か、能く来た、偉くなれよ」と仰やつて手を御握りになつた、其の慎太郎すら今では記憶がかすかになつて居る事だらう、其れで今日は一つお父さんが、祖父様の事をゆつくり一同にお話して上げようと思ふ。
 祖父様は偉い方だつた。而して又善い方だつた。実際お前達が知つて置くべき方、知つて置かねばならぬ方なのだ。世が世ならば一国一城の主ともなるべき人で、然かも其れが失敗したからと云つて、少しも天を怨まず人を咎めず、静にその運命を楽みながら、此のお父さんの為めに残りの生涯の全部を犠牲にして下さつたのだ。お前達が大きくなつて若し少しでもお父さんに感謝すべき事があるとするなら、其れは当然すべて祖父様に振り替へらるべきもので、お父さんの今日あるは全く祖父様の御かげ、祖父様の大きな愛を感ずる事がなかつたなら、お父さんは本当に何んなになつて居たか分らないのだ。
 足らない処もあつたろう、間違つてた処もあつたらうが。然かし其の一生を通じて、常に『爾の隣を愛し』身を殺して仁をなして居た点に就ては、祖父様に接触した人の殆んど凡てが一様に之れを認め之れを徳として居る。お前達は斯様云ふ人格を其の祖父様に持ち得た事を本当に名誉と思はねばならぬ。どれ其ではそろそろ御話を始めよう。

 最後の段落の最初、「足らない処もあつたろう、間違つてた処もあつたらうが。」と、マルで終わっている。これも、「文」を書きつけている者には、できない芸である。ここで、「弁」は一瞬、切れている。切れているから、そのあと、「然かし」と続くのである。この呼吸が、校訂者には通じなかった。だから、中公文庫版では、マルがテンに校訂されている。

*このブログの人気記事 2015・9・21(9・10位にきわめて珍しいものがはいっています)

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