礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

満洲を中立地帯とするため日本軍は完全撤収

2016-09-25 04:23:49 | コラムと名言

◎満洲を中立地帯とするため日本軍は完全撤収

「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
 本日は、「廣田・マリツク強羅会談」のうち、昨日に続く部分を紹介する(一八~一九ページ)。

 廣田氏は日・ソ関係打開の折衝を引うけるに当り、上掲三個の原案中(B)案をもつて最も現実的な案と考へたといふことがこれで明かとなるわけである。
 ソ連は日本を侵略国家と呼んだ。また中立条約更新の意思なきことを言明した。これは一見日本を去つて漸次米・英側に付かんとするソ連の下心を告白するものであるかのごとくであるが、また、当時のソ連と米・英との関係、更に世界全体とソ連との関係等を仔細に分析検討するならば、必ずしも安直にさうとばかりは考へられないのではないか、即ち、ソ連の肚裡〈トリ〉には今日なほ充分対日取引の秘められたる腹案が蔵されてゐて、この取引き案をできるだけ高く売らんとする計画があるのではないかとの一種の希望的観測も、当時のわが外交界では相当有力に行はれてゐたのであつた。
 廣田氏が果して右のやうな見解に与する〈クミスル〉一人であつたか否かは知らないが、彼が選んだ対ソ工作の方針からこれを見れば、彼もまたその基本的判断としては大体右の見解に立つてゐたのではなかかと考へられるのである。.
 帝国政府においてはマリツク氏の具体案提出要求を「脈あり」として大いに喜んだ。東郷外相は直ちに(B)案に関する日本政府原案の樹立に着手した。しかもそれは極めて急速になされなければならない。
 かくて六月十八日に至り漸く成案を得て、東郷外相はこの案を携へて参内、天皇陛下に直々〈ジキジキ〉内奏申上げたのであつた。
 内奏された政府原案の内容は大体次のごときものであつた。即ち
 (1) 満洲国を将来中立地帯化すること。
 (2) これがため、大東亜戦争終了後、日本は急速に満洲からその全兵力を完全撤収すること。
 (3) ソ連が日本に対して一定量の石油供給を約するならば、これが代償として日本は漁業権を返還すべきこと。
 (4) 以上を基礎として日・ソ間に期間三十年の長期友好条約を締結すること。
 (5) このほか何事によらず、日本政府は充分の誠意をもつてソ連との間に懸案の商議に応ずる用意あること。【以下、次回】

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廣田・マリック強羅会談(1945年6月)

2016-09-24 05:50:47 | コラムと名言

◎廣田・マリック強羅会談(1945年6月)

「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
 本日は、「廣田・マリツク強羅会談」の最初の部分を紹介する(一七~一八ページ)。

 廣田・マリツク強羅会談
 戦争最高指導者会議の原案に基づいて、東郷外相がその衝に当つた対ソ特派遣の工作は既述のやうな経緯から失敗に終つたが、決定された三案を中心とする対ソ積極工作は何らかの形で急速に実行されなければならない。
 ここで考へられたものが、特使となることは拒絶するが、他の方法でならばいかなる援助協力をも惜しまないと確約した廣田弘毅氏を煩はして〈わずらわして〉特使派遣に代る日・ソ下交渉〈シタコウショウ〉を東京で開始するといふ案であつた。
 五月二十三、二十五の両日にわたる大空襲をクライマツクスとする無差別爆撃は帝都の大部分を焼野原と化したほか、地方の大小都市を片端から焼き払つて行つて、日本全土が完全なる焦土と化すのも数週間を出でない〈イデナイ〉であらうと考へられた。事態は極めて逼迫〈ヒッパク〉していたのである。
 廣田氏は蹶起〈ケッキ〉を快諾した。私宅を焼かれて折柄鵠沼〈クゲヌマ〉に疎開中であつた廣田氏は人目を惹くことなしに箱根を訪れて、折柄箱根ホテルに疎開中であつたマリツク駐日大使と、会談の場所に当てられた強羅の星一〈ホシ・ハジメ〉氏別荘で、二日にわたる極秘会談を行つたのである。強羅会談と呼ばれるものが即ちこれである。
 会談は六月三日、四日の両日に亘つて、通訳を介して行はれた。廣田氏は氏がかねて抱懐する日ソ親善提携論を提げて熱心にマリツク氏を説いたといはれる。私は廣田氏の論旨の詳細はこれを承知しないが、それは傍ら〈カタワラ〉に在る者をして「流石に〈サスガニ〉廣田氏である。これだけの見識は廣田氏を措いて他にこれを求むることは出来ない」と思はしむる底〈テイ〉の堂々且つ極めて合理的なものであつたといはれる。マリツク氏はこの会談では終始聴き役であつた。彼は充分に廣田氏の説を傾聴した。そして、結論として、廣田氏が日・ソ両国はこの際進んで「長期間の友好関係確立」に向つて具体的な方図〔方途〕を策すべきであると提言したとき、マリツク氏は日本側からその具体案を提出するやうにと希望したのであつた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2016・9・24(6・9位にかなり珍しいものが)

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外務省「終戦経緯報告書」(1945年9月)

2016-09-23 02:03:49 | コラムと名言

◎外務省「終戦経緯報告書」(1945年9月)

「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
 本日は、「松岡・廣田は起たず」の節の後半を紹介する(一六~一七ページ)。

 そこで次の手段として、六月初旬の廣田・マリツク強羅〈ゴウラ〉会談の運びとなるのであるが、その次第は後述するとして、こゝで序で〈ツイデ〉であるから、去る九月の第八十八臨時議会〔一九四五年九月四日~九月五日〕に外務省から提出された「終戦経緯報告書」中からこの間の経緯に関する部分を摘記しておく。
 帝国政府は東亜の静謐〈セイヒツ〉を保持し、戦争の拡大を阻止し、延て〈ヒイテ〉世界平和の確立に貢献せんことを祈念し、本年四月以来不安となり来れる〈キタレル〉蘇連邦〈ソレンポウ〉との中立関係を改善し、一層鞏固〈キョウコ〉なる善隣関係を樹立する目的をもつて、六月以来同国政府に対し友好親善条約締結等に関する交渉を開始し、更に七月に至り速かに戦争を終結せしめて人類を戦争の惨禍より救はんとの大御心に従ひ、帝国と交戦国との間に公正なる平和を樹立する為、蘇連邦政府に斡旋を依頼すると共に、日蘇間に恒久的親善関係を確立する目的を以て、 同政府に対し近衛公爵を特使として派遣する意向を通達せり。
 然るに同国政府に於ては未だ右に対する明確なる見解を表示するに至らずしてその首脳者は「ポツダム」会談に赴きたり。
 以上の文章中、最初の数行に該当する部分が具体的にはいかなる事実を意味してゐたかは既に説明したところである。次に文中いはゆる「六月以来同国政府に対し云々」とある件以下の簡単な報告が、実際上の外交的動きとしてはいかなる経過を辿つた〈タドッタ〉かを、順を逐うて〈オウテ〉記述する。

*このブログの人気記事 2016・9・23(7位に珍しいものが入っています)

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松岡は拒絶、廣田は固辞(特使派遣)

2016-09-22 03:42:17 | コラムと名言

◎松岡は拒絶、廣田は固辞(特使派遣)

「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
 本日は、「松岡・廣田は起たず」の節の前半を紹介する(一五~一六ページ)。

 松岡・廣田は起たず
 五月十一、十二、十三の三日に亘る最高戦争指導会議は、上述のごとくその対ソ政策三案を決定したが、そのうちいづれを第一に、またいづれを主目的として、爾後の対ソ折衝を続けて行くかについては、この会議では何らの決定をも見てゐない。そしてただ漠然と、何者か総理級の大物をソ連に派して、右三案のうちいづれが最も実現の可能性を持つかについて、ソ連側の意嚮〈イコウ〉打診を行はしむることに決したのであつた。
 前にも書いたやうに、この種の考へ方が今日の国際社会ではもはや完全に通用しない旧式手段であるといふことはここでもまた忘れられてゐるのである。何ら訪問の意図をも明かにすることなく、ただ漠然たる大物派遣などといふ時代錯誤の提案を素直に歓迎する国は今日の世界には一国だつてありはしない。殊にソ連において然りである。出発点において対手国〈アイテコク〉を知らざることかくのごとし、もつて鈴木内閣の対ソ工作の前途は大体予想されるところであつた。
 しかし、流石に〈サスガニ〉東郷外相はこの種の特派派遣は内心不同意であつた模様である。またモスクワの佐藤尚武大使からは相当強硬な反対意見が申送られて来た。とはいへ、これが会議の支配的意見であつてみれば、東郷外相としては不本意ながら実行の衝に当らざるを得なかつた、といふのが真相である。
 東郷外相は元駐支大使川越茂氏に旨〈ムネ〉を含めて、特派使節候補者として選ばれた元外相松岡洋右、元首相廣田弘毅の両氏にその蹶起方〈ケッキカタ〉勧説を委嘱〈イショク〉したのであつた。
 松岡洋右氏は三年余に亘る肺患いまだ癒えず、ひたすら世を避けて療養生活に専念してゐたが、川越氏の来訪をうけて、その身の病気はともかくとして、かかる対ソ交渉は日本が直面してゐる現下の客観情勢から見て、所詮成功の見込みは全然ないとの見解を披瀝してきつぱりとこれを拒絶したのであつた。一方廣田弘毅氏は松岡氏とはやや見解を異にした。彼は話の持ち込み方如何によつては必ずしも成功の可能性なしとせずとの意見であつた。しかし、氏自ら特使たることはこれを固辞してうけず、その代りに今後とも別様の手段でならば随分ともに援助・協力を惜しまない旨を約したのである。
 かくて、結局、特使派遣の計画はこれで三度流産となつたわけである。【以下、次回】

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困難は日本の内部事情にあった(和平工作)

2016-09-21 15:50:47 | コラムと名言

◎困難は日本の内部事情にあった(和平工作)

「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
 本日は、「鈴木内閣の対ソ三政策決定」の節の最後の部分を紹介する(一四~一五ページ)。

 第三の策は以上A・B・C三策のうちで当時の事情に鑑みるとき最も実可能性の多い政策であつたともいへる。少くともソ連側としては最も関心を寄せ得るものであつただらう。しかし、困難は日本の内部事情の中にあつた。日本国民は軍といはず官といはず民は勿論のこと日本が直面してゐる破局的事態については殆ど何ら知らされることがなかつたのであるから、たとへソ連によつてうけ入れられ、米・英またその準備ある政策ではあつたにせよ、これが実行となると日本国内の一大混乱を予期せずには、その達成は困難と思はれたのであつた。
 これに反して(A)、(B)の二案は国内的にはまづ異議のないところであつだだらうが、これはソヴェト政府によつて受諾される可能性の極めて少いものであつた。すなはち(C)案が対米•英和平をその直接目的として、ソ連にはその仲介斡旋者たるの重要地位を提案するものであつたに反して、(A)・(B)の両案はいづれも対米・英戦の続行を前提として、この戦争の続行のためにソ連を日本の味方に近い状態に引込まうといふ案であつたから、少しく世界情勢を知る者の目には、そのいふべくして行はるベからざるものでることは当初から瞭然としてゐたのであつた。現にこの政策遂行の衝に当るべき外務当局ですら、当時既に「まづ九分九厘まで駄目だらうと思はれるが、ともかくやつて見なければならない」と率直に述懐してゐたものである。
 更に、この際われわれとして注目しなければならないことは、この会議がその対ソ根本政策として決定した右三案について見ても判るやうに、当時鈴木内閣としてはいまだ和戦両様の逆櫓〈サカロ〉的立場を脱し切れずにゐた、といふことである。すなはち、換言すれば、徹底抗戦の一本に徹してゐたわけでもなければ、和平一本に態度を決してゐたわけでもなく、強ひて言へば、和戦のいづれにも全く自信はないが、ともかく何かやつて見よう、やらねばならぬ、といふ極めて苦しい羽目に立つてゐたといふことである。
 さうした態度の必然的帰結として、この会議はその決定事項の実行策の一つとして、とりあへず――そして、またもや——「大物」人物の対ソ派遣といふ方針を決定した。

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