◎ソ連を仲介者とした極秘裡の和平工作
「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
本日は、「鈴木内閣の対ソ三政策決定」の節の、昨日、紹介した部分に続く部分を紹介する(一二~一四ページ)。
(A)まづ第一段として、帝国政府はソ連をして対日中立政策を今後とも引継ぎ維持せしめるがごとき方図〔方途〕を講ずること。
眧和十九年十一月のソ連革命記念日に当り、スターリン首相がその公式演説ではじめて日本に言及して、これに「侵略的国家」なる烙印〈ラクイン〉を捺したことは当時世界のセンセーションとして姦しく〈カシマシク〉論議されたところであつたが、爾来ソヴェトの対日態度は漸次冷却の一途を辿り〈タドリ〉、遂に二十年四月末に至つて、上述のごとくモロトフ外相はソ連としては中立条約更新の意思なきことを声明したので、従来ソ連交渉の基本とされて来た中立条約はあと一ケ年の有効期間を余して〈アマシテ〉当然廃棄せらるる運命と決したのであつた。
ソ連はこれをもつて果して近き将来におけるその対日参戦の準備となすものであるか否か、この点を確実に探知することが当時における外交の最大急務とされた。
当時の日本にもし活路といふものが残されてゐたならば、それは実に一に〈イツニ〉かかつてソ連の動向如何にあることはいまや議論の余地のないところであつた。従来の経験に徴しても、また現下の客観情勢に照しても対ソ工作は極めて困難である。それはむしろ不可能に近い。しかし、困難であらうと不可能に近からうと、日本が絶望的太平洋戦局の中からなほ且つ一条の活路を見出さんとするならば、それは敢へて対ソ工作の一本に邁進する以外にはない。といふのが鈴木内閣においてもまたその最高首脳部たちの一致した意見であつた。
(B)第二段として、もし可能ならば、そして能ふ〈アタウ〉限りの努力を傾注して、日・ソ関係を現在の中立条約による不即不離の状態から更に一步を前進せしめて、両国間に相当長期に亘る友好関係を確立するごとく働きかけること。しかして、これがためには日本としては勿論相当高価な犠牲を払ふことをもまた已む〈ヤム〉を得ないとされた。
従来の経緯から言つても、かゝることが可能であらうとは容易に考へられないところである。しかし、かうした活路打開の要求は、政界上層部から一般国民に至るまでその隠れた一部では相当根強く主張されはじめてゐた。表面は一億玉砕を標榜して飽くまで強硬であるかのごとく見えた軍部においてすら、海車の全滅的戦力消耗と陸軍の装備及び機動力
状況とを知る人々は、本土決戦の言ふべくして行はれ得ざる所以〈ユエン〉のものを熟知してゐた。まして陸軍の大部分が出張してゐたごとき本土及び大陸における「ゲリラ坑戦法」の全く無意味なことも充分に認識してゐたのである。してみれば、事の成否は別として、かゝる窮余の一策をもこれを試みざるを得ないことに、陸海軍大臣、陸海軍両幕僚長もまた進んで同意したのは蓋し〈ケダシ〉当然のことであつた。
(C)第三段の策としては、ソ連政府を仲介斡旋〈アッセン〉者とする対米・英和平工作を極秘裡〈ゴクヒリ〉に進むること。
これは勿論最後の手段である。そして私は、この決定をなすに.当つて陸海軍大臣、陸海軍両幕僚長が果していかなる程度にまで積極的な同意を示したかについては何ら知るところがない。だが、この決定が陸海軍の軍政・統帥を代表する最高責任者である四人を交へた六人だけの最高戦争指導会議で「絶対極秘」の固き約束のもとに正式政策として決定されたといふ事実は極めて重要視さるべきである。【以下、次回】