◎本多熊太郎とポピュリズム
昭和前期の日本は、日中戦争が泥沼の膠着状態にある中で、さらに米英に対して宣戦を布告し、その五年後には、完膚なき敗戦を迎えることになった。
今日から見れば、なぜ、当時の日本政府中枢は、米英に対して戦いを挑んだのか、なぜ、当時の日本国民は、そうした日本政府中枢の決断を支持したのか、「不可解」という印象が強い。
しかし、本多熊太郎の講演記録「現前の世界情勢と日本の立場」を読んでゆくと、そうした印象は、やや弱まる。そこには、一九四〇年(昭和一五)当時の「反英米論」、「強硬論」が、生々しい形であらわれているが、当時の国民は、そうした「反英米論」、「強硬論」に、強く惹かれていったのであろうと推察できるからである。
もちろん、本多の講演内容には、重大な判断の誤りがあった。「其の五」のところで、本多は、「欧洲戦争は完全に英国側の敗北である」と述べている。この本多の状況認識と予想は、正しくなかった。英国は、一九四〇年七月の「バトル・オブ・ブリテン」で、ナチスからの攻撃をはねかえしている。
また本多は、「其の四」のところで、「他国に依存して自国の安全を図るといふやうな外交をやつてゐたのでは、国が滅びるぞ」と述べていた。しかし、当時の日本政府中枢は、「他国」すなわち、ナチス・ドイツに依存して「自国の勢力拡張を図る」ような外交をやっていた。結果的には、そのことが自国を亡ぼす要因になったのである。
しかし、当時の日本政府中枢は、そうした判断の誤りを認めなかった。判断を誤ったまま自国の勢力拡張を図った。本多熊太郎を代表とする反英米論者、強硬論者もまた判断を誤り、日本政府中枢の判断の誤りを助長した。当時の国民もまた、本多熊太郎らの言説に踊らされ、日本政府中枢の勢力拡張路線を積極的に支持し、これに加担した。
秋田市で本多熊太郎の講演がおこなわれたのは、一九四〇年(昭和一五)七月であった。同年二月、国際法学者の蜷川新(にながわ・あらた)は、『日本及日本人』誌に、「独逸依存の言説の非理」という論文を寄せ、ドイツに依存しようとする日本政府中枢に対し、強い警告を発した(この論文は、すでに当ブログでも紹介した。本年一〇月七日~一〇日)。
今日から見れば、この蜷川新の警告が正しかったのであり、本多熊太郎の反英米論は誤りだったわけである。しかし、当時の状況の中で、日本の国民大衆は、蜷川の言説、本多の言説のいずれを支持しただろうか。両者の論文を読み比べてみると、やはり、国民大衆は、本多の言説のほうを支持したのではないかと考えざるをえない。「ポピュリズム」に訴える説得力(煽動力)において、本多の言説には、蜷川の言説を上回っているからである。
明日は、本多熊太郎という人物について述べる。