礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

名前を記録することが後世につながる(斉藤勉さん)

2025-02-23 00:02:39 | コラムと名言
◎名前を記録することが後世につながる(斉藤勉さん)

 昨日の続きである。今月14日の東京新聞記事「八王子・湯の花トンネル列車空襲/犠牲者特定 魯迅が縁/研究調査の対象 実は家族/30年余、慰霊碑に新たな名前」の本文は、次のようになっている。

 空襲があったのは1945年8月5日。正午過ぎに浅川駅(現JR線高尾駅)を出発した列車は、約5分後に卜ンネル付近で米軍の戦闘機から機銃掃射を浴びた。乗客の手記によると、疎開先の山梨県などに向かう民間人や兵士ですし詰め状態だった車内は、血の海と化したという。
 筑摩書房創業者の故古田晁〈フルタ・アキラ〉氏も列車に乗り合わせた。同社社史によると、席を取れず肘かけに腰かけていた男性が銃撃を受け、古田氏の膝の上にあった原稿用紙に血が飛び散った。原稿用紙は長野県塩尻市の古田晁記念館に展示され、空襲の惨劇を伝えている。
 この空襲を調査している「慰霊の会」会長で元高校教諭斉藤勉さん(67)によると、犠牲者は60人以上とみられる。91年までに50人弱の身元が分かり、遺族確認が取れなかった人を除く44人の名前が慰霊碑に刻まれた。
 その後、約30年途絶えていた身元判明をもたらしたのは、魯迅研究者の慶応大学名誉教授長堀祐造〈ナガホリ・ユウゾウ〉さん(69)だ。魯迅と約10年にわたり交流のあった歯科医の故奧田愛三〈オクダ・アイゾウ〉さんを調べていた。奥田さんは魯迅死去の時にデスマスクを取ったことでも知られる。
 長堀さんは2023年夏、福岡県糸島市に住む奥田さんの三男昇さん(81)にイン夕ビューした。その時、昇さんの姉新子さん=享年(20)=機銃掃射で亡くなったと聞いた。戸籍での死亡場所も湯の花卜ンネル付近となっていた。
 長堀さんは空襲についてインターネットで調べ、昨年9月に斉藤さんに連絡。本来の研究目的は果たしていたが「学者のさがというか、歴史を扱う者の責任として最後までやらないと」との思いだった。話を聞いた斉藤さんは「まさか新しい犠牲者の名前が分かるとは思わず、鳥肌が立った」と振り返った。
 慰霊の会は1月27日、新子さんの名前を慰霊碑に刻んだ。犠牲者の名簿に名前はあったが遺族の確認ができていない3人の名前も、戦後80年の節目だとして加えた。
 斉藤さんは犠牲者の名前を明らかにすることにこだわる。「何十人という数字だけでは、それぞれに人生があった実感が持てない。一人一人の名前を記録することが後世につながるはず。少しでも情報があれば連絡してほしい」と話した。

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列車銃撃空襲で、新たに犠牲者の身元が判明

2025-02-22 02:25:46 | コラムと名言
◎列車銃撃空襲で、新たに犠牲者の身元が判明

 今月14日の東京新聞の14面(社会面)に、「八王子・湯の花トンネル列車空襲/犠牲者特定 魯迅が縁/研究調査の対象 実は家族30年余、慰霊碑に新たな名前」という記事がのった。これを機会に、このあと、しばらく、「湯の花トンネル列車銃撃空襲」について紹介してみたい。「湯の花トンネル」の「湯の花」は、「いのはな」と読む。
 まず、東京新聞記事のリードを紹介してみよう。

 太平洋戦争末期、湯【い】の花トンネル(東京都八王子市)付近を走行中の列車が米軍戦闘機の機銃掃射を受けた空襲で、新たに犠牲者1名の身元が約30年ぶりに判明した。1991年までに50人弱が分かっていたが、その後は昨年9月まで進展がなかった。きっかけは、中国の文豪・魯迅の研究者が思わぬ形で犠牲者の弟から得た証言。今年1月、現場近くの慰霊碑に刻銘され、戦禍を後世に伝える。

 記事本文の紹介は次回。なお、「湯の花トンネル列車銃撃空襲」があったのは、1945年(昭和20)8月5日のことであった。これは、有名な「八王子大空襲」(同年8月2日未明)の、わずか三日後に起きた事件であった。

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原田慶吉教授の遺稿を読む

2025-02-21 02:57:55 | コラムと名言
◎原田慶吉教授の遺稿を読む

 当ブログでは、今月の13日、「原田慶吉教授、米軍兵士に殴られ脳挫傷の重傷を負う」というコラムを載せた。
 法制史学者で東大法学部教授の原田慶吉(1903~1950)は、1947年(昭和22)1月、東大赤門付近で、駐留米軍兵士の強盗に襲われ、脳挫傷の重傷を負った。1950年(昭和25)4月、脳挫傷の後遺症による極度の抑欝症を発症、同年9月、自宅で療養中に縊死したのであった。
 原田慶吉が縊死したのは、9月1日のことだったが、その三日前の8月29日、原田は、同じく法制史学者であり東大法学部教授であった久保正幡(くぼ・まさはた・1911~2010)に、ひとつの原稿を手渡した。
 この原稿「シュメール民族の一刑事訴訟記録」は、のち、法制史学会の機関誌『法制史研究 1』〔法制史学会年報(1951年)〕(創文社、1952年7月)に掲載された。本日は、これを紹介してみたい。

     シュメール民族の一刑事訴訟記録   原 田 慶 吉

 朝日新聞本社調査部藤岡常太郎氏の御好意により、New York Times三月十二日〔1950年〕の切り抜きと、Manchester Guardian三月四日の切り抜きとに接することができた。同氏の御好意に応えるため、簡単な報告をして置きたい。戦後の欧米学者の東南アジア発掘事業については、仄聞〈ソクブン〉はするが、いまだなんら文献に接することができない(一端について、板倉勝正氏の拙著「楔形文字法の研究」に対する紹介批評、史学雑誌五九編四号六八頁以下参照)。両新聞の報導もその事業のたんなる一部の報告にすぎまい。後者は昨年十一月シリアのRas Shamraに於ける発掘物に関するものであつて、楔形文字の三〇アルファベット文字を記すタブレットであり、シラブル文字であつた楔形文字が、フェニキヤ人によつて、アルファベット文字として利用され(この点については拙著前掲三〇頁にも、少しばかり触れ、文献も示しておいた)、現代のアルファベットの出発点をなした歴史にとつて、きわめて重要な資料であるが、これについては、私はなんら語る資格はない。他に適当な学者、とくにこの方面に明るい杉勇〈スギ・イサム〉教授に期待したい。前者はシカゴとペンシルヴァニア両大学の考古学者が、昨年秋以来シュメールのニップールで発掘した数百の粘土板中の一に関し、殺人裁判手続と証言を記す記録であるというから、おそらく、「完了せる訴訟」(di-til-la)と通常呼ばれているものと同様な一種の裁許止め(拙著前掲一〇頁参照)ではないかと思われる。幅二インチ長四インチの粘土板で、下部の左端は欠けているが、その部分はすでに五十年前に発見されていたから、つぎ併せば完全なものになる。現物の写真が載つているが、日本の一介の法制史家では、これだけでは何も判らない。報告者の報告をそのまま受けとるよりほかはない。その要旨によれば、紀元前一八五〇年頃、三人の男が一人の寺役人を殺し、その事実を殺された男の妻にも告げているのに、彼の女はこの事実を官にも通告せずにいたという事件が、国王Ur-Ninurtaの前に提訴され、国王はこれをニップールの市民議会の裁判に附したところ、この国民法廷では、九人の市民が、三人の殺人者のみならず、女も有罪を主張したのにたいし、別の二人の市民は、彼の女の弁護に立つて、彼の女は殺人行為には関与していないし、また殺された夫が彼の女を扶養していなかつたからには、なにゆえに彼の女が官に告げないのが悪いかと反駁し、その主張がいれられ、三人の殺人者のみが、殺された者の椅子の前で殺され、彼の女は放免されたということが記されている。私にはこれが報告者のいうごとく、殺人裁判の最古の実証記録であるかどうかは判らない。国王が民会の裁判にかけていることは、デモクラティックな思想の現われで、ともすれば古代東方の独裁専制王とかたずけやすい考え方にたいして、反省すべき材料となる。殺人者が殺された者の椅子の前で死刑を執行せられたという死刑執行方法は、犯罪事実を反映せしめるいわゆる反映刑(拙著前掲二七〇頁参照)の思想ではあるまいか。ハンムラビ法典にも、家宅闖入〈チンニュウ〉者が闖入場所の面前で死刑を執行される規定があるが、これと同一思想のように思われる。古代東方の法制では、夫が妻を扶養しているかいないかということは、妻の責任に大きな影響を齎らす〈モタラス〉。夫の不在失踪の場合でも、夫が扶養の資を残したか否かで、妻の貞操義務に大きな違いを生ずる。ハンムラビ法典(一三三、一三四条)でも、夫が捕虜になつた場合に、彼の家に「食うべきもの」があるときは、身を護つて、他家に行くことはできず、これに違反するときは、水死の刑が課せられるが、ないときは他家に趣くも責はない。
 〔附記〕 本稿は故原田教授の御遺稿で、教授がこれを執筆されたのは一九五〇(昭和二五年)三月から八月までの間のことである。教授は同年九月一日急逝されたが、教授が本稿をしかるべき雑誌に掲載して欲しいと私に託されたのは、八月二九日のことであつた(久保正幡)。〈45~46ページ〉

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これを機会にご冥福をお祈りしたい(三國一朗)

2025-02-20 00:10:09 | コラムと名言
◎これを機会にご冥福をお祈りしたい(三國一朗)

『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
 三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対するインタビュー記録の紹介としては六回目【最後】。

―― なかなか、テレビドラマでも、そうはうまくいきません。
小坂 うまくいきません。
―― しかし弔問とはいってもですね、お顔を見るわけではないから、それが隠しおおせたわけですね。遠くからお焼香するだけですから。
迫水 なにしろ死骸がひどくむごたらしくやられてるから見ちゃいかんと、こういうことにしたんです。
福田 この遺骸の置いてある部屋と次の部屋の間には、しきいがあるわけです。この上に焼香台をのっけて、この死骸のある所へはいっちゃいけないと、初めにみなに命令をしてあったんです。
―― みなさんが共同謀議をなすったのは、官邸の応接間だそうですね。
福田 そうです、そうです。
―― ここは、前の五・一五事件のとき、犬養〔毅〕首相が撃たれた場所でございますね。
福田 そうです。広い部屋なんです。
迫水 とにかく奇跡っていうか、神さまがお助けくださったということ以外には、どうして成功したのかということは説明できない。
―― で、首相は、脱出してからどちらにおいでになったのです。
福田 それから溜池〈タメイケ〉までいったんですけどね、あそこまでいったら頭がボーッとしちゃってね、運転手がどこへいくのかということを聞くもんだから、まあ「右へいけ」とか「左へいけ」とかいっている間に、麻布の三連隊前にきちゃったんです。(笑)これはいかんというんで、その谷を下りて、また上に上がったでしょう。そうすると右へいけば赤坂見附、それだから「左へいけ」っていったら、高橋是清さんの家の前に出ちゃった。(笑)
―― いや、ひどい所へ出たもんですね。
迫水 福田さん一人乗っているんだ。憲兵も乗ってるんだ。それで本郷の真浄寺まで、福田さんが連れていったらしい。それでそのあと、僕は松尾伝蔵大佐の死骸を総理大臣の遺骸といいたてている立場だから、一人で官邸の中で頑張っちゃった。
―― 事態を収拾してらしたわけですね。
迫水 ええ、頑張っちゃった。そのうち福田さんから電話がきましてね、「万事うまくいった」と連絡があって、ほっとしたな。
―― それで、いよいよ首相が生存しておられるという発表があったわけですね。
迫水 それは、もう二九日ですよ。
 あれから日本は軍国主義になった。しかし今日、いろいろ若い連中が扇動にのったりして騒いでる事態を考えると、今の世の中も、なかなかむずかしいと思いますね。〝感無きあたわず〟ですね。
―― しかし、この事件の陰に亡くなられた多くの犠牲者がおられます。これを機会にご冥福をお祈りしたいと思います。
迫水 今でも、亡くなった方々のご冥福はですね、岡田の家には警察官の位牌がちゃんとありましてね、命日二月二六日には、ささやかに霊を慰めることにしております。もう三〇年もの歳月がたちましたね。   (昭和四〇年二月二五日放送)

 参考文献案内
 迫水久常著「機関銃下の首相官邸」 昭和三九年八月 恒文社 
 小坂慶助著「特高」 昭和三一年一二月〔ママ〕 東京ライフ社
 岡田啓介述「岡田啓介回顧録」 昭和二五年一二月 毎日新聞社 〈158~161ページ〉

 小坂慶助著の代表作『特高』には、少なくとも三種の版があるようだ。『特高』(啓友社、1953年7月)、『特高――今こそ私は言える』(東京ライフ社〔東京選書〕、1956年1月、『特高――二・二六事件秘史』(文藝春秋〔文春学藝ライブラリー、2015年2月)の三種である。
「岡田首相救出秘話」は、このあとに、〈解説〉があるが(161~164ページ)、今回は、これは割愛する。

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うまくいったのは奇跡としか思えません(小坂慶助)

2025-02-19 00:12:24 | コラムと名言
◎うまくいったのは奇跡としか思えません(小坂慶助)

『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
 三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対するインタビュー記録の紹介としては五回目。

―― 具体的にどう運びました。
福田 それがなかなかむずかしい。たとえば弔問客が帰るときに一緒に紛れて出す、と、弔問客が岡田総理の顔を見て騒ぎ出す。これではまずいので、初めにこういうことだということを打ち明けておかなくちゃならんことになるわけです。しかし、それでは弔問客に迷惑をかけることになるんですよ。これは全然弔問客には知らさない方がよかろうと、そうするには、どうしても総理を病人にでもしたてて出すよりほかには方法がないという結論になった。
迫水 つまり、気持ちが悪くて脳貧血でも起こしたということにしようと、こういうことです。
―― そうすると、男の老人ばかりの弔問客がやってきたわけですね。
迫水 やってきたというより、呼び寄せたんです。
―― で、病人を装うというのは、具体的にどういうふうにしたんですか。
福田 いや、それは、憲兵三人と僕らとで打ち合わせてどうすりゃいいかと……、しかしなかなか困難なことでね、もしそれが見つかったら、僕の目の前で総理が撃たれなくちゃならんという場面があるわけでしょう。
―― みすみす助かった命を、またなくすということになる……。
福田 しかし、これよりほかに方法なしと……。
迫水 つまりね、岡田首相は押入れの中に寝まきを着ているわけだ。袴〈ハカマ〉をはいていたけどね。それを小坂さんが、少しずつ、だんだんにねずみが物を引っぱっていくように、洋服やなにか持っていく。そこで着替えさして待っていたわけなんです。それで弔問客がはいってくる。弔問客はこちらで焼香。しかも別の遠くの離れた所から焼香させている間に、その岡田総理大臣をかつぎ出す、福田さんと小坂君が大きな声を出して「馬鹿な奴だ、死骸なんか見るから気分が悪くなるんだ!」というようなことをどなりながら、玄関へ連れて出ると……。
―― ははあ、すると顔をなるべく見えないように……。
迫水 それはマスクをつけたり、メガネをつけたりしたんです。
小坂 結局、四人の分担をきっちり決めたんです。福田さんは、淀橋の総理私邸に電話して待機中の弔問客を呼び寄せ、官邸に誘導する。車一台を裏門に待たせておく。そして弔問客を広間で青柳軍曹に引き渡して、すぐ女中部屋にいって小坂と総理を連れ出す。
 小倉伍長は裏門で歩哨を懐柔し、小坂が「病人だ、車を!」という声に応じて、福田さんが準備した自動車を裏玄関に入れる。
 青柳軍曹は、一人ずつ弔問者がはいったら襖をしめちゃって、そして全部やるのは、次の部屋に遺骸があるのですから、一人ずつ焼香させて時間をかせぐ。その間、弔問客が絶対に死顔〈シニガオ〉を見ないようにする。その間に福田さんと私と女中さんとで、総理の和服姿を洋服に着替えさせる。弔問客が遺体のある部屋にはいったら、裏玄関に連れ出して、「病人だ。車を入れろ!」とどなる……。
―― 反乱軍たちは、目をさらのようにして、それを見ているわけでしょう。
小坂 ええ、反乱軍の歩哨は十何人もいますし、巡察もきますし、屍【しかばね】歩哨もいるんですから、その目をかすめるために……。
―― そのへんはクライマックスで。
小坂 そこで一つまちがえれば、もう終わりなんですから。
迫水 そこは、ほんとうにクライマックスだ。
―― たいへんなスリルとサスペンスと、今では申しますけれどね。
迫水 弔問客がはいってもいいことがわかってね、そういうことを福田さんに通告すると、すぐ私は宮内省から官邸にとって返したわけです。
 ところがもう、そのときは総理は脱出してしまっていた。それで福田さんもいなけりゃ小坂君もいないんだ。そこで僕はそこへ残って弔問客の始末と……いったいどうして福田さんが急にいなくなったんだろうね、という話なんだね。
小坂 そこで裏門の前にあった車を裏玄関につける用意をさせて、それが小倉伍長の任務で、「病人だ!」といったら、かまわずすぐ入れろと、そういう手配がほんとうにきっちりうまくいったんですね。まだ、あんなにうまくいったのは奇跡としか思えません。〈156~158ページ〉【以下、次回】

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