◎近親者の弔問客を利用できんか(福田耕)
『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対するインタビュー記録の紹介としては四回目。
―― 小坂さんは、どうしてそんなにお隠しになったんですか。
小坂 私はですね、官邸にようやくたどりついたのが、二七日の朝、確か一〇時ごろなんです。まず岡田さんの生存を確認しようと女中部屋にいったところが、岡田首相がまちがいなく生きておられる。それで「閣下、もうしばらく辛抱してくれ」ということをお願いして、裏玄関正面の応接間までやってきまして、青柳〔利一〕軍曹と小倉〔倉一〕伍長という部下を連れてきましてから、その三人で、どうしようかと、声をひそめて相談したわけなんです。もし三人で勝手なことをやって、それがもし反乱軍にわかって総理も一緒に殺されたら、結局、憲兵も反乱軍にされると……だからこれをやるにはどうしても秘書官を一人入れようではないか、官邸の事情にも詳しいからと、こういうことになりました。たまたま二六日に福田秘書官から憲兵に「憲兵を派遣しろ。兵隊を取り締まるのは君たち憲兵の役目じゃないか」と何回も電話がかかってきたのです。ことによると福田さんは総理の生存を知っているのじゃないかということを、そのときの電話で感じたわけなんです。そこで一応、福田さんに相談して、秘書官が一緒なら仮りにまちがっても大丈夫だ、反乱軍の汚名を受けずにすむのではないかと、こういうことで私が福田さんの所へいったわけです。実際をいうと、私は、福田さんが喜んで「おう、頼む」というと思っていたところが、「えっなんですか。そんな人いますか」なんてとぼけていうものですから、おかしいな、こんなはずではない、と……それで「実は、岡田総理が生存されておる。私たちはなんとか救出したいと思って苦労しているんだ」ということで、初めて福田さんが喜びましてね。話がきっちり一致しまして……。
―― そうすると、お三人で救出するという実際工作にはいるわけなんですが……。
迫水 私はね、ずっと宮内省にいました。そのわけは、閣議がどんどん宮内省で開かれているから、その状況を見なければならんのです。従って救出の具体的な行動について謀議には参加できなかったんです。で、私は総理が脱出するのといきちがいになって官邸に帰ってきましてね。あとの始末は私が一人官邸に残って、非常に恐ろしい思いをしながらやったんです。
―― すると、救出劇はお二人〔福田・小坂〕の共同演出というわけなんですね。
迫水 そういうことです。
小坂 結局ね、福田さんから、近親者の弔問者を一〇名ぐらい入れさせてくれと陸軍大臣秘書に頼んである、それを利用できんかという案が出されたんです。私たちはいろいろ考えても、どれも危険が多いので困っていたんですが、この福田さんのヒントに、みながそれはよいととびついたんです。
迫水 それは私が宮内省の方で工作してね、陸軍省の将校が、総理官邸の反乱軍の指揮官に交渉してくれて、まあ若干の人間ということで、一二、三人なら一度だけ弔問を許すということになり、それで福田さんに連絡をして、そういうことになったからということをいってあったんです。
―― その弔問客をどういうふうにお使いになろうとしたんですか。
福田 実はいろいろ考えてみたが、総理を安全に脱出させる方法がないんです。それでこれはもう、その弔問客に紛れて外に出すと、それより方法がないという結論になったんですよ。
―― 弔問客が出入りする、そのどさくさ紛れに脱出させようというわけですね。
福田 まあ、そういうことです。それで老人ばっかり連れてこいと、こういうことにしたんです。
迫水 それは、こういうことなんです。二人で電話やなにかで連絡して、「弔問客をそのくらい集めて、弔問客に紛れて脱出する以外手はないな」といって相談をしていたわけですね。そこに小坂憲兵が福田さんの所へ連絡にきてですね、その弔問客に紛れて出す具体的な方法の相談が始まったと、こういうことです。〈153~155ページ〉【以下、次回】
『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対するインタビュー記録の紹介としては四回目。
―― 小坂さんは、どうしてそんなにお隠しになったんですか。
小坂 私はですね、官邸にようやくたどりついたのが、二七日の朝、確か一〇時ごろなんです。まず岡田さんの生存を確認しようと女中部屋にいったところが、岡田首相がまちがいなく生きておられる。それで「閣下、もうしばらく辛抱してくれ」ということをお願いして、裏玄関正面の応接間までやってきまして、青柳〔利一〕軍曹と小倉〔倉一〕伍長という部下を連れてきましてから、その三人で、どうしようかと、声をひそめて相談したわけなんです。もし三人で勝手なことをやって、それがもし反乱軍にわかって総理も一緒に殺されたら、結局、憲兵も反乱軍にされると……だからこれをやるにはどうしても秘書官を一人入れようではないか、官邸の事情にも詳しいからと、こういうことになりました。たまたま二六日に福田秘書官から憲兵に「憲兵を派遣しろ。兵隊を取り締まるのは君たち憲兵の役目じゃないか」と何回も電話がかかってきたのです。ことによると福田さんは総理の生存を知っているのじゃないかということを、そのときの電話で感じたわけなんです。そこで一応、福田さんに相談して、秘書官が一緒なら仮りにまちがっても大丈夫だ、反乱軍の汚名を受けずにすむのではないかと、こういうことで私が福田さんの所へいったわけです。実際をいうと、私は、福田さんが喜んで「おう、頼む」というと思っていたところが、「えっなんですか。そんな人いますか」なんてとぼけていうものですから、おかしいな、こんなはずではない、と……それで「実は、岡田総理が生存されておる。私たちはなんとか救出したいと思って苦労しているんだ」ということで、初めて福田さんが喜びましてね。話がきっちり一致しまして……。
―― そうすると、お三人で救出するという実際工作にはいるわけなんですが……。
迫水 私はね、ずっと宮内省にいました。そのわけは、閣議がどんどん宮内省で開かれているから、その状況を見なければならんのです。従って救出の具体的な行動について謀議には参加できなかったんです。で、私は総理が脱出するのといきちがいになって官邸に帰ってきましてね。あとの始末は私が一人官邸に残って、非常に恐ろしい思いをしながらやったんです。
―― すると、救出劇はお二人〔福田・小坂〕の共同演出というわけなんですね。
迫水 そういうことです。
小坂 結局ね、福田さんから、近親者の弔問者を一〇名ぐらい入れさせてくれと陸軍大臣秘書に頼んである、それを利用できんかという案が出されたんです。私たちはいろいろ考えても、どれも危険が多いので困っていたんですが、この福田さんのヒントに、みながそれはよいととびついたんです。
迫水 それは私が宮内省の方で工作してね、陸軍省の将校が、総理官邸の反乱軍の指揮官に交渉してくれて、まあ若干の人間ということで、一二、三人なら一度だけ弔問を許すということになり、それで福田さんに連絡をして、そういうことになったからということをいってあったんです。
―― その弔問客をどういうふうにお使いになろうとしたんですか。
福田 実はいろいろ考えてみたが、総理を安全に脱出させる方法がないんです。それでこれはもう、その弔問客に紛れて外に出すと、それより方法がないという結論になったんですよ。
―― 弔問客が出入りする、そのどさくさ紛れに脱出させようというわけですね。
福田 まあ、そういうことです。それで老人ばっかり連れてこいと、こういうことにしたんです。
迫水 それは、こういうことなんです。二人で電話やなにかで連絡して、「弔問客をそのくらい集めて、弔問客に紛れて脱出する以外手はないな」といって相談をしていたわけですね。そこに小坂憲兵が福田さんの所へ連絡にきてですね、その弔問客に紛れて出す具体的な方法の相談が始まったと、こういうことです。〈153~155ページ〉【以下、次回】
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