礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

近親者の弔問客を利用できんか(福田耕)

2025-02-18 00:25:38 | コラムと名言
◎近親者の弔問客を利用できんか(福田耕)

『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
 三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対するインタビュー記録の紹介としては四回目。

―― 小坂さんは、どうしてそんなにお隠しになったんですか。
小坂 私はですね、官邸にようやくたどりついたのが、二七日の朝、確か一〇時ごろなんです。まず岡田さんの生存を確認しようと女中部屋にいったところが、岡田首相がまちがいなく生きておられる。それで「閣下、もうしばらく辛抱してくれ」ということをお願いして、裏玄関正面の応接間までやってきまして、青柳〔利一〕軍曹と小倉〔倉一〕伍長という部下を連れてきましてから、その三人で、どうしようかと、声をひそめて相談したわけなんです。もし三人で勝手なことをやって、それがもし反乱軍にわかって総理も一緒に殺されたら、結局、憲兵も反乱軍にされると……だからこれをやるにはどうしても秘書官を一人入れようではないか、官邸の事情にも詳しいからと、こういうことになりました。たまたま二六日に福田秘書官から憲兵に「憲兵を派遣しろ。兵隊を取り締まるのは君たち憲兵の役目じゃないか」と何回も電話がかかってきたのです。ことによると福田さんは総理の生存を知っているのじゃないかということを、そのときの電話で感じたわけなんです。そこで一応、福田さんに相談して、秘書官が一緒なら仮りにまちがっても大丈夫だ、反乱軍の汚名を受けずにすむのではないかと、こういうことで私が福田さんの所へいったわけです。実際をいうと、私は、福田さんが喜んで「おう、頼む」というと思っていたところが、「えっなんですか。そんな人いますか」なんてとぼけていうものですから、おかしいな、こんなはずではない、と……それで「実は、岡田総理が生存されておる。私たちはなんとか救出したいと思って苦労しているんだ」ということで、初めて福田さんが喜びましてね。話がきっちり一致しまして……。
―― そうすると、お三人で救出するという実際工作にはいるわけなんですが……。
迫水 私はね、ずっと宮内省にいました。そのわけは、閣議がどんどん宮内省で開かれているから、その状況を見なければならんのです。従って救出の具体的な行動について謀議には参加できなかったんです。で、私は総理が脱出するのといきちがいになって官邸に帰ってきましてね。あとの始末は私が一人官邸に残って、非常に恐ろしい思いをしながらやったんです。
―― すると、救出劇はお二人〔福田・小坂〕の共同演出というわけなんですね。
迫水 そういうことです。
小坂 結局ね、福田さんから、近親者の弔問者を一〇名ぐらい入れさせてくれと陸軍大臣秘書に頼んである、それを利用できんかという案が出されたんです。私たちはいろいろ考えても、どれも危険が多いので困っていたんですが、この福田さんのヒントに、みながそれはよいととびついたんです。
迫水 それは私が宮内省の方で工作してね、陸軍省の将校が、総理官邸の反乱軍の指揮官に交渉してくれて、まあ若干の人間ということで、一二、三人なら一度だけ弔問を許すということになり、それで福田さんに連絡をして、そういうことになったからということをいってあったんです。
―― その弔問客をどういうふうにお使いになろうとしたんですか。
福田 実はいろいろ考えてみたが、総理を安全に脱出させる方法がないんです。それでこれはもう、その弔問客に紛れて外に出すと、それより方法がないという結論になったんですよ。
―― 弔問客が出入りする、そのどさくさ紛れに脱出させようというわけですね。
福田 まあ、そういうことです。それで老人ばっかり連れてこいと、こういうことにしたんです。
迫水 それは、こういうことなんです。二人で電話やなにかで連絡して、「弔問客をそのくらい集めて、弔問客に紛れて脱出する以外手はないな」といって相談をしていたわけですね。そこに小坂憲兵が福田さんの所へ連絡にきてですね、その弔問客に紛れて出す具体的な方法の相談が始まったと、こういうことです。〈153~155ページ〉【以下、次回】

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憲兵の小坂君が味方なのかわからない(福田耕)

2025-02-17 00:08:09 | コラムと名言
◎憲兵の小坂君が味方なのかわからない(福田耕)

『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
 三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対するインタビュー記録の紹介としては三回目。

―― お話がいよいよ救出のいきさつになったんですが、当時の記憶は、やはり福田さんも生々しくお持ちでいらっしゃいましょうね。
福田 私は忘れることはできませんな。
―― 迫水さんは宮内省へ駆けつけておいでになる。福田さんはどうなさいました。
福田 それが、どうして救出するか――生存しておられることはわかったけれども、どうにも方法がつかんのですな。その方法についてわれわれは非常に困ってしまいました。
―― 憲兵曹長だった小坂さんは、どうしてお知りになったんですか。
小坂 それはですな、自分の部下の篠田〔惣寿〕という憲兵一等兵〔ママ〕が陸軍大臣官邸に勤務しておりまして、たまたま銃声を聞いて、やはり夜に紛れて官邸にはいってしまった。それが女中部屋におじいさんがいるというので、見定めてみると、それが岡田総理大臣だとわかったものですから、びっくりして午後二時ごろ帰ってきたんです。最初は信じられなくて「まちがいじゃないか」と聞いたんですが、「私がこの眼で見たんだからまちがいない。官邸の中を歩いていると一人の女中がいた。『早く避難しろ』といったが、泣くばかりで、どうもおかしい。で、押入れを調べたら総理がいた。それですぐ報告に帰った」というんです。そこで、とにかく天皇陛下の最もご信任厚い総理大臣であり、しかも海軍大将という軍に関係のある方ですから、これはもうどうしても救い出そうと決心をしたわけなんです。
―― しかし、憲兵内部にも反乱軍に通じている人もいたということですから、うかつには……。
小坂 ええ、だからもう岡田総理大臣の生存ということは、分隊長〔東京憲兵隊麹町憲兵分隊森健太郎分隊長〕と私と篠田と三人きり……だれにも口外しないと、もしもれると、やはりすぐ反乱軍に通じますから、せっかく生存されておるのをみすみす殺す結果になりますから……。
―― そうすると、小坂さんもそういうわけで総理生存を知った。福田さん、迫水さんも知っていた。この別々の二組が期せずして同じ情報をつかんで、どういうきっかけで連絡がとれたんですか。
福田 それは事件の翌日、二七日です。小坂曹長がね、わしの家にやってきた。そして初めは、あそこにもう一人老人がいるんだが、それをどうしますかと、こういう話ですよ。
―― それが首相だということは……。
福田 それはね、私も憲兵の小坂君がね、われわれの味方なんだか反乱軍の味方なんだかわからない。ですから、それが総理だっていうことは、私たちなかなか言い出せないんです。それはだれのことですかって……まあ、そういうことでした。
―― 肚〈ハラ〉のさぐり合いですか。
迫水 そう、そのとおりです。〈151~153ページ〉【以下、次回】

 文中、「篠田という憲兵一等兵」とあるが、原文のまま。「篠田という憲兵上等兵」とあるべきところか。

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女中二人の様子が普通じゃない(迫水久常)

2025-02-16 01:30:37 | コラムと名言
◎女中二人の様子が普通じゃない(迫水久常)

『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
 三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対するインタビュー記録の紹介としては二回目。

―― 反乱軍は気がつかなかったんですか。
迫水 全然気がつかなかった。つまり老人があの家の中に二人住んでいるってことを知らなかった。老人を一人殺したから、それが総理であろうと想定したわけでしょう。
―― お二人は、よく似ていらしたわけですか。
迫水 いや、たいして似てもいなかったような気がしますけどね。ま、両方とも軍人らしい面〈ツラ〉をしておったから、その点は似ておったんでしょう。二人は血筋じゃないんです。松尾〔伝蔵〕大佐の奥さん〔稔穂〕が、岡田啓介の妹なんです。そこで、岡田大将でなしに松尾大佐の遺骸だということがわかったから、福田さんと私は以心伝心ですね。これはもう、このままにしておこうってことで、総理大臣の死骸に仕立ててしまったわけです。
 部屋を出ると、待っていた〔栗原安秀〕中尉が「総理の遺骸にまちがいありませんね」と聞く。私たちは「まちがいありません」と。ところが、ここに二人の女中がおった。サク、キヌというんですが、その女中に会いたいというと、女中さんならあっちの部屋ですと簡単に案内してくれたんです。で、女中部屋にはいると、押入れの前に二人が並んで坐っているんです。襖〈フスマ〉二枚に一人ずつ背中を当てて、しかも二人の様子が普通じゃないんですね。これはこの押入れの中に総理がいるんじゃないかと感じたんですね。しかし、私たちの回りには兵隊がいますから、うかつなことはいえんわけです。で、私が「けがはなかったか」と聞いたんです。すると一人が「はい、おけがはありません」というんですな。おけがの「お」でピンときたんです。それで長居は無用ですから「すぐ迎えにくるからしっかり」といって、福田秘書官を残して部屋を出ました。兵隊も私について部屋を出た。そのすきに福田秘書官が、女中から総理のいることを確認したんです。で、必ず迎えにくるからといってきた。
―― なるほど。しかし、総理が生きていることがはっきりしてからは、なおさら気が気じゃなかったでしょうね。
迫水 全くです。で、私の官舎へ帰って、福田秘書官とどうしようかと相談した。いちばん困ることは、うかつに首相生存を伝えるわけにはいかんことでした。総理即死ということで、あちこちから電話がかかりましてね。宮内省からは、岡田首相の霊前に勅使を派遣したいなどといってくる。これはまだ占領下にある首相官邸内に遺骸があるんだから、もう少し待ってくださるようにお願いしましたがね。そこでとにかく、総理生存を天皇陛下のお耳にだけは入れておきたいということになった。しかし電話をすることは、どこで盗聴されているかわからないので、できない。で、私が参内してひそかに報告するということになり、福田さんがあとに残って救出計画を考えるということになったんです。〈149~151ページ〉【以下、次回】

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危うく声を出しそうになったほど驚いた(迫水久常)

2025-02-15 03:41:25 | コラムと名言
◎危うく声を出しそうになったほど驚いた(迫水久常)

『証言・私の昭和史2――戦争への道』(旺文社文庫、1984)から、「岡田首相救出秘話」を紹介している。
 本日以降は、三人の証言者(迫水久常・福田耕・小坂慶助)に対し、放送タレントの三國一朗がおこなったインタビューの記録を紹介する。

―― 死んだと思っていた岡田首相が生きておられた、ということは、二・二六事件の最大のエピソードだと思うのですが、迫水さん、当時のことはご記憶ですか。
迫水 いや、もう夢のように三〇年が過ぎました。やっぱり二・二六事件というのは、日本の国としても重大事件でありましたし、私の六〇年の生涯でもきわめて重大で、もう昨日のことのように、いろいろなことをはっきり憶えております。この事件のあらましにつきましては、私も「機関銃下の首相官邸」という本〔恒文社、1964〕を書きましたし、もう一人の証言者の小坂君も「特高」という本〔啓友社、1953〕を書いておりますが、ちょうどその日、二月二六日の朝は、私は総理大臣官邸の裏門の前の私の官舎、隣が福田耕〈タガヤス〉秘書官の官舎だったわけですが……この二階に寝ておったわけです。そうすると、銃声の響く音で目が覚めたわけですね。それで官邸の方を見おろしますと、もういっぱい兵隊がはいってきておる。塀を乗り越えたりしてはいって、銃撃し始めた。それでまあ、いよいよきたかなと私は思ったわけです。
 いよいよきたっていうことはですね、当時は非常に不穏な空気でして、その前の五・一五事件もあったから、なにかありはしないかなということは、われわれも考えていました。ですから非常に警戒は厳重にして、官邸の窓には鉄の格子〈コウシ〉をはめるとかいう工作は、しておったです。で、やっぱりきたなと……。まさか軍隊が何千人もくるとは思わなかったところに問題があったわけですね。それで一応銃撃の音がやみまして一段落した。
 私は官邸がおかしいなと思ったとき、警視庁の特別警備隊に電話したんです。そしたらすぐいくということだった。ところが、新選組――その特別警備隊を当時新選組といっていたんですが、それがさっぱりやってこない。で、また電話したら、男の声で「こちらは決起部隊だ」というんです。それで警視庁も占拠されたんだなとわかったんです。やがて、われわれは家族一同軟禁伏態になっていたんですが、そこへ将校がやってきまして、「総理大臣のお命を私どもが国家のためにいただきました」という通告をして帰っていったんですよ。兵隊たちも裏門付近からほとんど引き揚げたんです。
 それで私は隣の福田秘書官の家にひそかにいきまして、福田秘書官と「これからどうするか、親爺は殺されちゃった」というわけです。それから何度も向こうに掛け合いまして、「ぜひ、総理大臣の遺骸を礼拝させてくれ」ということを頼んだ。なかなか、それが許可にならなかったんです。それが九時ごろじゃなかったかと思いますが、やっと指揮官の栗原安秀中尉から許可になったものですから、私と福田秘書官と二人で遺骸を見にいきました。
 そのとき出がけに私の妻(迫水夫人〔万亀〕は岡田啓介首相の次女である)が、「どうもお父さんは生きていらっしゃいますから、そのつもりで。」といったんですね。どういうわけでそんなことをいったんだか、未だにわかりません。
 玄関からはいりますと、どこも軍靴で踏み散らされ、廊下の所どころに兵隊がいてにらんでいる。それで、総理が平生〈ヘイゼイ〉寝室にしていた部屋に遺骸があったわけです。ところか、ついてきた一人の憲兵〔篠田惣寿上等兵〕が「死骸を見てもお驚きになりませんように」というんです。で、私はひどくやられたんだなと思ったんです。で、無意識だったんですが、私と福田秘書官だけその部屋にはいって襖〈フスマ〉をしめたんです。二人だけになっちゃったんです。遺体のそばに行って黙礼して、顔をおおっていたふとんを持ち上げたら、驚いたですね。危うく声を出しそうになったほど驚いた。それは岡田啓介の遺骸じゃなくて義弟の松尾伝蔵〈マツオ・デンゾウ〉大佐の遺骸だったわけですね。〈147~149ページ〉【以下、次回】

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  • 二・二六事件と不穏文書臨時取締法



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「岡田首相救出秘話」(1965)を読む

2025-02-14 02:14:45 | コラムと名言
◎「岡田首相救出秘話」(1965)を読む

 当ブログでは、例年この時期に、二・二六事件関連の記事を載せてきた。持ちネタは、ほとんど尽きている状態だが、今年は、旺文社文庫の『証言・私の昭和史2――戦争への道』(1984年11月)から、「岡田首相救出秘話」を紹介してみたいと思う。
 この、「証言・私の昭和史」シリーズは、よく知られている通り、三國一朗を「聞き手」としてテレビ放送されていた「私の昭和史」という番組(東京12チャンネル)の内容を書籍化したものである。
『証言・私の昭和史2――戦争への道』には、二・二六事件関係の「証言」が、ⅠからⅣまで、計四本、紹介されているが、今回、紹介する「岡田首相救出秘話」は、そのⅡにあたる。もとになった番組は、1965年(昭和40)2月25日に放送されたという。
「Ⅱ 岡田首相救出秘話」の構成は、〈証言者〉の紹介、〈証言者〉に対するインタビュー、「参考文献案内」、〈解説〉となっている。
 本日は、〈証言者〉三人の紹介のところを引いてみたい。

Ⅱ 岡田首相救出秘話
証言者
 迫水久常 明治三五年鹿児島に生まれる。東大卒、大蔵省入り、事件当時岡田〔啓介〕首相秘書官。終戦時鈴木貫太郎内閣の内閣害記官長、戦後経済企画庁長官、郵政大臣、現在参議院議員。
 福田 耕 明治二一年福井県に生まれる。東大卒、東京市電気局入り、事件当時岡田首相秘書官。衆議院議員、華中電気通信社長、日本タイプライター社長を経て、戦後国際電々専務取締役、現在同社顧問。
 小坂慶助 明治三三年に生まれる。大正一一年より昭和二〇年八月終戦まで憲兵として勤務、事件当時、東京憲兵隊麹町憲兵分隊特高班長(曹長)、その後、昭和一五年憲兵少尉となり、熊谷憲兵隊分遣隊長を経て、華中派遣、終戦時憲兵大尉。帰国後戦犯に問われ、巣鴨で三年間拘禁される。〈146ページ〉

「現在」とは、1965年(昭和40)2月のテレビ放送の時点である。証言者は、いずれも故人。迫水久常(さこみず・ひさつね、1902~1977)、福田耕(ふくだ・たがやす、1888~1970)、小坂慶助(こさか・けいすけ、1900~1972)。

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