今回の記事、硬い上に長いよ。いい(笑 ?
今の言葉で言うとどうしようもなくメタボなスペイン人の神父はこう言っていました。
「動物にぃー理性わぁ、ありませぇん」
うちの中学は倫理と称してキリスト教を教える授業があり、
もはや体裁を繕わず「宗教」の時間なんてのもある異色な学校でした。
色々なものに反発したい年頃だったからでしょうか、
13歳の僕はその至極全うな考えにも納得がいきませんでした。
理性を考える力と定義づけるなら、犬にだって「理性」はあるんじゃないのか。
例えば、犬なら飼い主が落ち込んでいるのに気づけば
まるで慰めるかのような行動を取ることがある、と。
「それわぁ、そういう風に仕込んだら、でしょう?」
違うよ、フェリペさん。
群れで過ごす本能に基づいて、共同生活者の異変を察知しただけだよ。・・・多分。
決して調教することでそうなるわけではない。
なぜなら、彼らは本能的に「情けは人のためならず」を体現しているから。
ただ、理性は動物にはなく、人間にはある。
そんな陳腐なことを言っても何の面白みもありません。
人が動物よりも論理的な思考能力が高いことなんて、誰の目にも明らか。
今更わざわざ言うようなことじゃない。
では僕なら、動物になく人間にあるものとして何をあげるか。
・・・それは、強欲。
どんな猛獣であろうと、満腹であれば危険はありません。
彼らは過剰に求める必要性が無いのを・・・いや、その無駄を本能的に知っているから。
一度飢餓を味わった人間は、たとえそのときに空腹を感じていなくても
もう二度とそうなることが無いように食べ物を確保しようとするでしょう。
それは理にかなった行動であるし、その先見の明があったからこそ
この繁栄を築きあげることができたのは明白な事実です。
ただし、その思考能力があるからこそ、
人は怯え続けなくてはならなくなりました。
何かを手にしたとき、
それを獲得したことを喜ぶ以上に
それを失うことを恐れなければならなくなりました。
金メダリストは、「次も」という強いプレッシャーを感じるのは当然のこととして、
空虚感にも苛まれると聞いたことがあります。
次は世界記録を、連覇を・・・と上向きのベクトルにどんどん移って行ける人はいいけれど、
世界を制したメダリストでさえ、厳しい練習に耐えたタフな人でさえ、
手にしてしまった「世界一」を失うことに怯えてしまうケースもあるようです。
幸せを相対的なものとしてみれば、
世の中に幸せでない人は居ないと言ってもいいでしょう。
皆、もう幸せを構築するのに十分なマテリアルを持っているはず。
ならば、無視できないこの飢餓感は一体何なのか。
・・・人は強欲なんです。
今もって居るものだけじゃ飽き足らないんです。
常に、もっと・・・もっと・・・、と今以上のものを求めずには居られません。
その飢餓精神をエネルギーとして何かを得たとしても、結局は同じことの送り返し。
さらに多くのものを求めるようになるだけです。
尤も、人はこの永遠に癒されることの無い渇きを持っているからこそ
進歩してこられたのも否定できません。
永遠の苦痛を強いられる代償に、永遠の進歩(のあしがかり)は常に持っているはずです。
今持っているものに十分満足できるようになれば、きっと世界は違って見えるんでしょう。
仏教が説く無欲というのは、そういうことなのかな・・
有名な台詞ですが、漱石は「先生」にこう言わせています。
「精神的に向上心のないものはばかだ」
明治の書生にとって「精神的な向上心」というのは、
時として命よりも重いものだったみたいですね。
当時はそれが先駆的、時代の流行にある考え方だったんでしょう。
ただし、精神的な向上は精神的な飢餓を発端とするもの。
それは絶対的な関係ではないかもしれないけれど、
飢えを必要としない向上心なんてものは、僕の目から見れば眉唾物です。
まとめ。
向上心を保つために、飢餓感は必要なもの。
でも常に飢えているということは、
いくら獲得しようともそれに満足しきることが出来ないということ。
打開策案。
1)無欲になる
2)強欲に抗わない
そして無難な妥協案。
・・・どっちも程ほどに。
年取れば考え方も変わっていくんでしょうけど・・。
今の言葉で言うとどうしようもなくメタボなスペイン人の神父はこう言っていました。
「動物にぃー理性わぁ、ありませぇん」
うちの中学は倫理と称してキリスト教を教える授業があり、
もはや体裁を繕わず「宗教」の時間なんてのもある異色な学校でした。
色々なものに反発したい年頃だったからでしょうか、
13歳の僕はその至極全うな考えにも納得がいきませんでした。
理性を考える力と定義づけるなら、犬にだって「理性」はあるんじゃないのか。
例えば、犬なら飼い主が落ち込んでいるのに気づけば
まるで慰めるかのような行動を取ることがある、と。
「それわぁ、そういう風に仕込んだら、でしょう?」
違うよ、フェリペさん。
群れで過ごす本能に基づいて、共同生活者の異変を察知しただけだよ。・・・多分。
決して調教することでそうなるわけではない。
なぜなら、彼らは本能的に「情けは人のためならず」を体現しているから。
ただ、理性は動物にはなく、人間にはある。
そんな陳腐なことを言っても何の面白みもありません。
人が動物よりも論理的な思考能力が高いことなんて、誰の目にも明らか。
今更わざわざ言うようなことじゃない。
では僕なら、動物になく人間にあるものとして何をあげるか。
・・・それは、強欲。
どんな猛獣であろうと、満腹であれば危険はありません。
彼らは過剰に求める必要性が無いのを・・・いや、その無駄を本能的に知っているから。
一度飢餓を味わった人間は、たとえそのときに空腹を感じていなくても
もう二度とそうなることが無いように食べ物を確保しようとするでしょう。
それは理にかなった行動であるし、その先見の明があったからこそ
この繁栄を築きあげることができたのは明白な事実です。
ただし、その思考能力があるからこそ、
人は怯え続けなくてはならなくなりました。
何かを手にしたとき、
それを獲得したことを喜ぶ以上に
それを失うことを恐れなければならなくなりました。
金メダリストは、「次も」という強いプレッシャーを感じるのは当然のこととして、
空虚感にも苛まれると聞いたことがあります。
次は世界記録を、連覇を・・・と上向きのベクトルにどんどん移って行ける人はいいけれど、
世界を制したメダリストでさえ、厳しい練習に耐えたタフな人でさえ、
手にしてしまった「世界一」を失うことに怯えてしまうケースもあるようです。
幸せを相対的なものとしてみれば、
世の中に幸せでない人は居ないと言ってもいいでしょう。
皆、もう幸せを構築するのに十分なマテリアルを持っているはず。
ならば、無視できないこの飢餓感は一体何なのか。
・・・人は強欲なんです。
今もって居るものだけじゃ飽き足らないんです。
常に、もっと・・・もっと・・・、と今以上のものを求めずには居られません。
その飢餓精神をエネルギーとして何かを得たとしても、結局は同じことの送り返し。
さらに多くのものを求めるようになるだけです。
尤も、人はこの永遠に癒されることの無い渇きを持っているからこそ
進歩してこられたのも否定できません。
永遠の苦痛を強いられる代償に、永遠の進歩(のあしがかり)は常に持っているはずです。
今持っているものに十分満足できるようになれば、きっと世界は違って見えるんでしょう。
仏教が説く無欲というのは、そういうことなのかな・・
有名な台詞ですが、漱石は「先生」にこう言わせています。
「精神的に向上心のないものはばかだ」
明治の書生にとって「精神的な向上心」というのは、
時として命よりも重いものだったみたいですね。
当時はそれが先駆的、時代の流行にある考え方だったんでしょう。
ただし、精神的な向上は精神的な飢餓を発端とするもの。
それは絶対的な関係ではないかもしれないけれど、
飢えを必要としない向上心なんてものは、僕の目から見れば眉唾物です。
まとめ。
向上心を保つために、飢餓感は必要なもの。
でも常に飢えているということは、
いくら獲得しようともそれに満足しきることが出来ないということ。
打開策案。
1)無欲になる
2)強欲に抗わない
そして無難な妥協案。
・・・どっちも程ほどに。
年取れば考え方も変わっていくんでしょうけど・・。