この話は以前書いたことがあるかもしれないけれど、もう一度。
おそらく、高校1年のときの話。
壁が一面窓ガラスという温室みたいな学食にスズメが一羽迷い込んでいました。
どうにかして脱出しようと、何度もガラスに向かって行ってはぶつかっていました。
一緒にそれを見ていた友人は「馬鹿なスズメだ」と言って笑いました。
僕はそのスズメに自分の姿をみて笑えませんでした。
見えるものしか信じられないのは自然なこと。
だけど僕らはそこにあるもの全てを見ているわけではない。
視覚に限らず感覚なんてもとをただせば神経の興奮。
あるものをそのまま捉えられるわけもなく、
どこかにエラーが生じれば無いはずものをあると捉えてしまうこともある。
幻視も幻聴も、本人にしてみれば、確実に「見える」ものだし、「聞こえる」もの。
僕らはもうちょっと感覚を疑ってみるべきなんじゃないだろうか?
知覚と存在の間にはもっと深い溝があるはず。
結局、スズメは何度も何度も体当たりしているうちに開いている窓を見つけ、
そこから出て行きました。
原始的ではありますが、確実な方法には違いありません。
でも今は、あのスズメに、ガラスを割って飛び出るような
強引さと勢いがあってもよかったかもな、と思うんです。
おそらく、高校1年のときの話。
壁が一面窓ガラスという温室みたいな学食にスズメが一羽迷い込んでいました。
どうにかして脱出しようと、何度もガラスに向かって行ってはぶつかっていました。
一緒にそれを見ていた友人は「馬鹿なスズメだ」と言って笑いました。
僕はそのスズメに自分の姿をみて笑えませんでした。
見えるものしか信じられないのは自然なこと。
だけど僕らはそこにあるもの全てを見ているわけではない。
視覚に限らず感覚なんてもとをただせば神経の興奮。
あるものをそのまま捉えられるわけもなく、
どこかにエラーが生じれば無いはずものをあると捉えてしまうこともある。
幻視も幻聴も、本人にしてみれば、確実に「見える」ものだし、「聞こえる」もの。
僕らはもうちょっと感覚を疑ってみるべきなんじゃないだろうか?
知覚と存在の間にはもっと深い溝があるはず。
結局、スズメは何度も何度も体当たりしているうちに開いている窓を見つけ、
そこから出て行きました。
原始的ではありますが、確実な方法には違いありません。
でも今は、あのスズメに、ガラスを割って飛び出るような
強引さと勢いがあってもよかったかもな、と思うんです。