自分について語ろうとするとき、ぼくは常に軽い混乱に巻き込まれることになる。
「自分とはなにか?」という命題につきものの古典的なパラドックスに足を取られてしまうわけだ。つまり、純粋な情報量から言えば、ぼく以上にぼくについて多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としての僕によって―その価値観や、感覚の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によって―取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。とすれば、そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう?ぼくにはそれが非常に気にかかる。というか、昔から一貫して気にかかってきた。
村上春樹「スプートニクの恋人」より引用。
僕は今ではあまり本を読まないのでこういうことを考える機会も少ないのですが、こんな風にたまにふと考えるようなことが文章で表現されているのを見るととても興味深く感じます。
例えば、本当は怒りっぽいのにいつもその感情を押し殺して穏やかに振舞っている人がいるとします。あくまでも例えの話。
その人にとっての自分は「怒りっぽい」はずだけど、周りから思われている自分は「穏やか」なはず。「怒りっぽいけど表に出さない」が、その人にとっての自分を一番的確に表せているかもしれません。
その例えの場合、一般的に本質的な自分は「怒りっぽい」と考えられるんでしょうが
あえて、「怒りをコントロールできる」ところに重点を置いてその人を捉えることもできます。
引用した文章にもありますが、自分をどう見せたいか、というのも関わってくるでしょうね。また、同じ人を見ても性格の捉え方は様々なはずですよね。
そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう?
他人から見た「自分」の情報を整理したとしても、そこに「自分」が関わってくる以上、真の客観性を得ることは不可能。そこ客観的事実は無いと考えるべきだと思います。もちろん、人から聞いた自分像には客観的な事実は含まれてはいますが、
それを聞いたのが自分である時点でそこから真に客観的な事実を抽出することはできないと思うから。
ではいっそのこと「自分」が全く関与しないところ…他人と他人の会話における自分…なら客観的といえるのではないか?
否。
他人から見たのでは分からない「自分」の情報量は膨大だから。
パラドックス。
自分とは何かを本当の意味で知ることは不可能。自分でも気づいていない「潜在的な自分」を考慮に入れればなお―。
妥協すれば自分はこういう存在でもありこういう存在でもあるらしい、っていえないことは無いんでしょうけど…。
まぁ…「古典的」って言われているような話題だから僕なんかでは考えも遠く及ばない先賢が十分すぎるほど考えていることだろうし、ここを見てくれている人の中にも「ぁ、そういうの自分の専門」って人もいるのかもしれません。
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どうしてこんなことを延々と書いたかと言うと、昨日の飲み会でした心理テストの結果が興味深いものだったからです。
(とくにドリアンのとか。笑)
内容について書いてしまうと、まだしていない人の楽しみを奪ってしまうので書きませんけど。
心理テストなんて言っても血液型の性格診断のように占い的要素が強いのでしょうが、(情報源にもよる?)結果があまりにも意味深長だとあぁこういうのもアリかなって気がしました。
でもやっぱり答えが出ませんよね。
また人によって感じ方受け取り方が違うから、やはり難しいです。
自分が良かれと思ってした行動でも、不快を感じる人はいると思いますし、なんとも思わない人もいると思います。
客観性とは、普通の人を定義するのが大変困難であるのと同じく一概に述べられないと思います。
他人に気付かされる自分もいますし。
心理テストとか性格っていうのは、その人の本質をいってるのではなく、傾向をいってる気がします。
この人は優しい。普通の人はこんな事気がつかないのに気付くとか。
逆にごみは捨てるという皆がやっている事をできない人をマナーが悪いとか、行儀が悪いといったりします。
こういう言い方は変ですが、他人があっての自分・比較してこその自分なんだと俺は思います。
自分は他人に比べてこういう傾向がある、だからこういう性格なんだろうって・・・
いい訳みたくなってるwwww
長々と失礼しました。
でも、やっぱり自分ってなんなんだろうって思いますよね。
良かれと思ってしたことが不快に思われることって…少なからずありますよね。
比較することで自分が見える、ですか。思いつきませんでした。
なるほど…そう考えてみるとわりとすっきりしそうですね。