病室を訪ねたとき、攻殻機動隊を見ていた彼を見て思ったんです。
一体彼と自分では何が違うのかって。
僕が彼の年のとき、僕は好き勝手なことばかりしていました。
今も好き勝手しているようなものですが、現在の彼にはその自由すらありません。
彼に自由が許されているとしても、それはかなり限定的なものです。
大学病院でないと今後扱うことは無いような珍しい病気。
有効な治療法は確立されていません。
そういう状況にあって、彼は5年生存率が何十%という世界を生きぬかなければなりません。
手元には彼がこれから行う治療に関する報告がありますが、
現実は冷酷で、シビアな結果しか書かれていません。
そんな成功率の低い治療を、今、行っています。
考えたんです。彼と自分の違いはどこにあるのか。
・・運。
やはりこれに尽きます。
僕は彼のことをかわいそうだと思う。
それは上から目線の感覚。
見られた側を傷つけるいわゆる同情と呼ばれるもの。
だけど、それは自然な心の働き。
その感情を抑えることができたとしても、そういう感情を持ったという時点でほぼ同罪。
だとしたら、そういった「自然な感情」を抑えることに意味は無いんじゃないかと思うんです。
世の中には、そういう人たちに対して
「前世で何か罪を犯したんじゃないか?」というようなことを言う人が居ます。
(実際にそういう経験をしました)
その発言がどれだけ残酷か、言った人は気づかないんでしょうね。
僕がそう思うのは生まれ変わりを信じていないからなのかもしれませんが、
少なくともそういう人間に対して言う言葉としては、あまりに配慮を欠いています。
上から目線とか同情とか考えたときに、必ず思い起こすのはマズローの欲求階層説。
僕らが生きていて生じる様々な苦しみや悩みは、
生と死の瀬戸際に立たされている人たちからすれば
「贅沢な苦しみ」あるいは「贅沢な悩み」となるんでしょう。
彼らはそういう苦しみを味わいたいと思っても、それすらできません。
まずは生きなければならないから。
死んでしまってはそういう段階に達することができないから。
彼らを前にすると、自分が持っている悩みなどの
「程度の低さ」と「階級の高さ」をしみじみと感じます。
そして、僕がこういうことを考えていることは、彼らには知られたくありません。
このような上からの視点は彼らをひどく傷つけてしまう恐れがあるから。
それでもやはり、かわいそうだという感情は拭えないんです。
本人には何の過失も無く、ただ確率の問題にすぎないのに。
僕が彼らの状況になかった保障など、どこにもないのに。
僕は「他人事」という言葉が大嫌いです。
なぜなら、こういうことを考え始めると、
「それらは結局は他人事」と処理しようとする無意識の圧力を感じ、
最後には屈してしまうから。
自分がその状況になくてよかったという醜い自己愛を感じるから。
全ての生物は利己的である。
分かっていますが、どこかで受け入れがたいものがあります。
年齢の近い患者さんを相手にすると、このような「贅沢な苦悩」が生じます。
何が問題かというと、この苦悩が年齢の近い患者さん限定であるということ。
つまり、年の離れた患者さんの苦しみは、僕にとっては他人事でしかないわけです。
想像力が無いからとはいえ、アンフェアでしょ?
一体彼と自分では何が違うのかって。
僕が彼の年のとき、僕は好き勝手なことばかりしていました。
今も好き勝手しているようなものですが、現在の彼にはその自由すらありません。
彼に自由が許されているとしても、それはかなり限定的なものです。
大学病院でないと今後扱うことは無いような珍しい病気。
有効な治療法は確立されていません。
そういう状況にあって、彼は5年生存率が何十%という世界を生きぬかなければなりません。
手元には彼がこれから行う治療に関する報告がありますが、
現実は冷酷で、シビアな結果しか書かれていません。
そんな成功率の低い治療を、今、行っています。
考えたんです。彼と自分の違いはどこにあるのか。
・・運。
やはりこれに尽きます。
僕は彼のことをかわいそうだと思う。
それは上から目線の感覚。
見られた側を傷つけるいわゆる同情と呼ばれるもの。
だけど、それは自然な心の働き。
その感情を抑えることができたとしても、そういう感情を持ったという時点でほぼ同罪。
だとしたら、そういった「自然な感情」を抑えることに意味は無いんじゃないかと思うんです。
世の中には、そういう人たちに対して
「前世で何か罪を犯したんじゃないか?」というようなことを言う人が居ます。
(実際にそういう経験をしました)
その発言がどれだけ残酷か、言った人は気づかないんでしょうね。
僕がそう思うのは生まれ変わりを信じていないからなのかもしれませんが、
少なくともそういう人間に対して言う言葉としては、あまりに配慮を欠いています。
上から目線とか同情とか考えたときに、必ず思い起こすのはマズローの欲求階層説。
僕らが生きていて生じる様々な苦しみや悩みは、
生と死の瀬戸際に立たされている人たちからすれば
「贅沢な苦しみ」あるいは「贅沢な悩み」となるんでしょう。
彼らはそういう苦しみを味わいたいと思っても、それすらできません。
まずは生きなければならないから。
死んでしまってはそういう段階に達することができないから。
彼らを前にすると、自分が持っている悩みなどの
「程度の低さ」と「階級の高さ」をしみじみと感じます。
そして、僕がこういうことを考えていることは、彼らには知られたくありません。
このような上からの視点は彼らをひどく傷つけてしまう恐れがあるから。
それでもやはり、かわいそうだという感情は拭えないんです。
本人には何の過失も無く、ただ確率の問題にすぎないのに。
僕が彼らの状況になかった保障など、どこにもないのに。
僕は「他人事」という言葉が大嫌いです。
なぜなら、こういうことを考え始めると、
「それらは結局は他人事」と処理しようとする無意識の圧力を感じ、
最後には屈してしまうから。
自分がその状況になくてよかったという醜い自己愛を感じるから。
全ての生物は利己的である。
分かっていますが、どこかで受け入れがたいものがあります。
年齢の近い患者さんを相手にすると、このような「贅沢な苦悩」が生じます。
何が問題かというと、この苦悩が年齢の近い患者さん限定であるということ。
つまり、年の離れた患者さんの苦しみは、僕にとっては他人事でしかないわけです。
想像力が無いからとはいえ、アンフェアでしょ?
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