社会を構成するものとは

2022-11-06 17:28:04 | 学習塾・勉強の仕方

ビートルズについて書かれた沢山の本には、ポール・マッカートニーの発言として、彼ら四人は全員音符を満足に書けなかったし読めもしなかったとのこと。比喩的な言い回しでは、ポールが思いついたメロディを口笛で吹くとジョンがそれに応えて口笛を吹き返して曲が出来上がるのだとありました。

町の修理工場からスタートして一代で世界最大のオートバイメーカーに育て上げた本田宗一郎さんは、自身の本の中で、読書が嫌いで学校のテストの点数も悪かったと言い切っています。モノを作る授業は大好きな反面、習字など発展性の乏しいものはとにかく嫌で仕方なかったと。

こういう話は沢山あります。エジソンやフォードなどもこれらの範疇かもしれません。

これらを読み、そう知ることでヘンな思い違いをして「それでもいいのだ」などと安易で勝手な決めつけをしてよいはずもないのですが、そこから何かが生まれることなど実際には殆ど無いし、でも実際にはそういう人が結構います。

物事を好き勝手に解釈して自分を甘やかす人は、自らを厳しい環境に置いて頑張る人の何万倍もいるとある本に書いてありました。その本には、こうして社会にはしっかり頑張った人と自分を甘やかした結果大した人間にならなかった人とがうまく混在して成り立っているとも書かれていました。

見方によれば、こうして社会あるいは世界は支配する者とされる者とが割合の上でうまく調和しているとも言えます。

聞いたその時はあまり愉快ではありませんでしたが、かつて努めていた損害保険会社の東大出の社長は、よく話していました。

「会社に貢献する社員は15%、会社にとって不要かつ有害な社員も15%、残る70%はどちらにもなる可能性があるだけで、実のところ給料泥棒の域を出てはいない」

似たようなことは、昔通っていた高校の教員も言っていました。

「良い成績を常に取れるのはクラスの10%、あとの連中はただのぶら下がり。ごくまれにそのぶら下がりの中から凄いやつが出てくることもあるらしいが、あまりにも稀すぎてオレはそういうやつにはまだ出会ったことはない」

 

私は思います。

好むと好まざるとに関わらず、こうしたことは現実の社会を反映したものだと。ちょっと頑張ったくらいですぐに芽が出てくるなんていうことは殆どないのが実際のところで、これは私も好きな「頑張っても全員ができるようになるとは限らないが、頑張らなければ全員がほぼ確実に出来ないままで終わる」という格言のような言葉に通じます。

問題は、一件不公平で過剰なまでの競争を強いられるようにも感じる社会ではあっても、グダグダ言っていないでそこから何を汲み取って活かしていくかということで、それ次第で住む世界が良くも悪くもなるのだと理解して行動することだと。これも本に書いてあったことですけど。

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大事なことは

2022-11-06 12:20:37 | 学習塾・勉強の仕方
最近よく思うんです。
テストというのは、それでよい結果を出すために努力すること自体に本来の価値があるのであって、結果それ自体の価値はその次の位置にすぎないと。

テストは、決められた時間内にそれまでに覚えたり練習してきたことを、問題作成者が望む答え方で如何に効率よく答案に書き込むか、書き込めるかを問うものでしかなく、そこには人間性や将来性の本質をうかがわせるエッセンスはあっても、確たるものがそれから判定されるものでもありません。

冒頭で「最近思うんです」なんて書きましたし、学習塾などやっている立場の者が言うことでもないかもしれませんが、テストなんて所詮そんなものです。ですから、テストはそれを受ける前の、あるいは普段の段階から如何に何をどのように、どのくらい中身濃く努力するかに本来の価値があるのだという意識は、実は子供の頃からずっと思っていたことです。ここでいう努力とは、今他に適当な言葉が見つからないので臨時に使っているもので、昔でしたら修行とか精進とか、そんな言葉もあったことでしょう。因みに、年端も行かぬ子供がそれもせず学校にも行かず、他人からカネをせびって革命家とか抜かして調子こいてるようなろくでもないことは、ここでは全くの想定外且つ無意味なことです。

テストを受けて入る学校(つまり私立)だからよい学校だとか、テストで上の点数を取るからあの子は良い子だとか、そんな浅薄でしか判断出来ないなら、それは不幸です。毎週の単語テストで満点を取れないと言って自分の子供を詰るのは少しピントがずれていて、本質は、その子が普段からあると分かっているテストに向けて真面目に準備をしないその事にあるのであり、その理由がゲームだスマホだのいうのなら、それを買い与えている保護者自身の普段の行為段階における問題改善の努力不足をこそこの際真剣に深刻に考える時と、そう思います。
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魔女婆さん

2022-11-06 09:38:41 | 学習塾・勉強の仕方
我が家の隣は善人と魔女(それも婆さんなの)が住んでいて、朝八時には善人たるお寺のお坊さんのとても澄んだ綺麗な声の読経(朝のお勤め)がリズミカルに聞こえてきます。私の就寝は大抵午前二時頃なので朝早く起きるのは苦手なのですが、この読経はそんな私を夢見心地のなかでゆっくりと現世に引き出してくれます。

一方魔女の方は、10何年か前に私がここに引っ越して来るとき近所の人に「ヘンな人だから十分気をつけてね、十分」と警告された通りのヘンな人で、私が通りを歩いていたらブツブツ言いながら後をつけてきて、婆さんのくせに結局一キロあまりも意味不明の追跡をされたり、私が庭仕事をしたり玄関先を掃除していてふと視線を感じると物陰からじっとこちらを覗き見していたりと、不気味なことこの上ない。

近所から総スカン食って誰からも話しかけられない寂しさがそうさせるのか、こちらが「しまった!見つかったか」と思ってしまうくらいの偶然を装って待ち伏せ食らった時には、逃がすもんかという執念をギラギラたぎらせて「何々について話さなくちゃいけないと思ってるのよ。お時間あるう?」とか言ってにじりよって、しかしその「話さなくちゃいけない」内容たるや、鎌倉市役所の窓口の対応と駐車場の位置の関係性とか江の電の線路の曲がり方と飛び散る鉄粉についての件とか、なんじゃそれというようなことばかり。 

というわけで、家を出るときの私はまず二回の窓から十分に路地のあちこちを見回して、魔女婆さんの姿のないことを確かめた上で、なるべく音を立てないようにそうっと玄関を締め、そして走って大通りまで逃げ出して、そこで漸く一安心ということになります。

先日もそうやって腰越郵便局までたどり着き、ATMで用事を済ませた時、ふと背後に悪寒を覚えたと思ったその瞬間、魔女が「あら」と言って「そうそう、これも話しとかないとね」とか言い始めたので、私は思わず「出たなバケモノ」という吹き出しが目の前に浮かんで見えました(悲)。
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