前回取り上げた右翼ネオコン新党の中で、首長連合(日本志民会議)については、記事執筆時点ではまだ党結成前という事もあって、簡単にしか取り上げていなかった。事実、くだんのHPを読む限り、「立ち上がれ日本」と似たり寄ったりの内容でしかなかったから。しかし、その後正式に「日本創新党」として、立党宣言や基本理念やらが発表されるに及び、改めて当該新党のHPを読み返してみた。その結果、この新党の理念・目標とするものが、この間続々と自民党離党組が立ち上げた右翼新党の、国家観・人間観を良く言い表したものである事が、今更ながら分かった。そこで、今回はこの新党に限って、もう少し書いてみたいと思う。
この新党のHPには、「自立」「責任」「強い個人」といった言葉が頻繁に登場する。しかし、その言葉の意味する所が、どうも私が今まで抱いていたものとは違うのだ。若し仮に、この新党の党員・支持者と私が、ある問題で議論になったとしても、同じ「自立」という言葉一つとっても、双方で意味合いが微妙に異なる為に、多分いくら議論してもすれ違いにしかならないだろう、そんな予感がするのだ。
私にとって「自立」とは、「ホームレスの自立」「障害者の自立」とかの用法で使われるものと、同じ意味合いのものでしかない。それは、一言で言えば「人間としての当たり前の、普通の生活が送れるようになる」という事でしかない。仕事や家を失ったホームレスが、再びそれらを取り戻せる事。事故で手足を失った障害者が、義足や車椅子の力も借りて、少しでも以前と同じ様な生活を送れるようになる事。一言で言えば、日本国憲法25条で言う所の、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保障された状態に他ならない。
しかし、この新党を始めとした、ネオコン(新保守主義者)やネオリベ(新自由主義者)といった右翼・資本家連中のいう「自立」とは、前述の私の意味とは、微妙に異なるようなのだ。普通に仕事して、普通に余暇を楽しみ、しかしその中でも人間としての喜びや誇りを失わずにいる。健康で文化的な最低限度の生活が営める・・・どうやら、それだけでは「ダメ」らしい。
そんなものは、ただ安逸を貪るだけの、「社畜」「給料泥棒」の生き方でしかない。そんな事は人間として当然の事であって、全然「プラス評価」にはならない。人間として評価されるには、それ以上に秀でた業務遂行能力なり特殊技能なりを持っていなければダメだ。奥谷禮子・城繁幸・勝間和代・イチローみたいな人だけが評価されるのだ・・・と。そういう事のようなのだ。
しかし、みんながみんな全員プロ野球選手みたいになれる筈もないし、その必要もない。若しそんな事になってしまったら、プロ野球選手も「プロ」でなく「只の人」になってしまうw。
勿論、当該HPでも、そこまで露骨な表現はしていない。しかし、例えば当該新党HPの「私たちのめざす日本の国家像」のページにある「自由で力強い日本」とか、「立党宣言」のページにある「「選ばれる国」になるために国際競争にしのぎを削」れだとかいう言い回しの裏に、そういう露骨な弱肉強食思想が透けて見える。
ここで目指すべきとされているのは、あくまでも「普通の日本」ではなく、「強い日本」であり「選ばれし国」でなくてはならないのだ。そして、その為の「国際競争にしのぎを削」る事の出来ない「負け組・ワーキングプア」は、「死ね」とまでは言われないまでも、「しのぎを削って生きている勝ち組・資本家」の前では、小さくなっていなければならない、と。そういう価値観に貫かれている。
※真鍋昌平・作「闇金ウシジマくん」(小学館「ビッグコミックスピリッツ」連載)より
勿論、最低限の独立も維持できないような国や、日々の生活にも事欠くような国民の暮らしでは、あってはならないと私も思う。だから、国民全てが「健康で文化的な最低限度の生活が営める事」が、国としての最低条件だ。その為には、国民も、読み書きや普通の計算が出来て、普通に仕事が出来て、普通に日常生活が送れなければならない。義務教育卒業程度の学力を兼ね備え、自分の頭で物事を考えられる国民でなければならない。
その上で、メディアリテラシーの能力を身に付け、マスコミの情報操作や政府の嘘も見破る事が出来、万が一、生活困窮や不当解雇に晒されても、どういう権利や法律があり、どこに相談に行けば良いか理解できて、自分で行動できる、必要ならば周囲にも助けを借りる事が出来る。そういう「生きた学力」を体得出来れば、尚良し。そういう国民であってこそ、国としての独立も維持できる。何となれば、国民あっての国家なのだから。それが「国民の自立」であり「国家の自立」だ。少なくとも私はそう考える。
その観点からすると、今の日本は、「独立・自立している」とは到底言い難いのは確かだ。但し、それは右翼がよく言う「憲法第9条の所為」なんかではないと思う。第9条でも、国民の自衛権までは否定していないからだ。他国の侵略に際しては、国民は抵抗する権利がある。これは現憲法の下でも同じだ。仮に非武装の立場に立つとしても、「非武装国民抵抗」という考え方もあるからだ。それ以外にも専守防衛という選択肢もある。
今の日本の独立が損なわれているのは、寧ろ憲法9条よりも日米安保条約に因る所の方が大きいと思う。それが、在日米軍によるジェット機墜落事故やレイプ事件でも日本側に禄に裁判権が無い治外法権や、「思いやり予算」「核兵器の持込密約」や、普天間基地問題であろう。沖縄戦の最中に米軍がドサクサ紛れに強盗同然に作った基地一つ撤去出来ないなんて、他の米国の同盟国でも在り得ない話だ。米軍よりも遥かに軍備の劣るタイやフィリピンですら、とっくに米軍基地を撤去したと言うのに。非武装で米国の経済的従属下にある中米コスタリカでも、米国には是々非々の外交政策で臨んでいるというのに。
その「国家・国民が自立していない」という話だが、それは決して「国民道徳の衰退」や「国への依存」に帰せられるべきものではない。そうではなく、戦後ずっと続いた自民党政治が、対米追従一辺倒で来たからだ。それは前述の安全保障の問題だけでなく、例えば国内農業の衰退についても言える事だ。
農業衰退の原因は補助金依存に因るものか?違うだろう。仮にその様な依存体質があるにしても、そう仕向けてきた元凶こそが問題であろう。そして、本来食糧自給も充分可能であるにも関わらず、米国やWTOの言いなりに、減反政策やミニマム・アクセス米の義務的輸入、輸入自由化を強行してきた自民党歴代政府こそが、その最大の元凶ではないか。これは「食の安全」についても然りだ。米国や国際資本の言いなりに、BSE・遺伝子組換作物・食品添加物の規制をどんどん緩和してきたから、産地や日付の偽装も罷り通るようになったのではないか。
その輸入一辺倒の犠牲は誰が払うのか。日本の農民・消費者であり、また、国際資本によって農産物を買い叩かれ、飢餓輸出を強いられている開発途上国の農民ではないか。それを「国家依存で公徳心を無くした国民が悪い」という右翼の言い草は、正に「白を黒」と言い換える詐術でしかない。
しかし、ネオコン・ネオリベ右翼にあっては、絶対にそうは考えない。国や個人の自立を阻害しているのは、あくまでも国民の「公徳心の欠如」や「国への依存心」なのだ。そして、それを払拭する為には、「健康で文化的な最低限度の普通の暮らし」を追い求めたり、「国民みんながそこそこ食って行けて、他国の言いなりにはならず、他国を自分の属国扱いもせず、どんな国とも民主的に協調してやっていける国」であるだけでは、「ダメ」なのだ。あくまでも「強い個人」や「強い国」が求められるのだ。それが国家や国民の「自立」という事のようなのだ。
だから、「国を当てにせず」(新自由主義)、逆に「国に尽くす」(新保守主義)事が求められるのだ。正に「帝国主義国における臣民の心構え」とも言うべきものだ。
また、人間が自立するには、「自助」(自助努力、自己責任)・「共助」(助け合い、社会連帯)・「公助」(公的扶助、社会保障)の3つが共に必要なのに、この種の右翼にあっては、ひたすら「自助努力」だけが過度に強調される。
そこでは、「共助」や「公助」は、あくまでも「自助」の「付け足し」であり、それも「強い個人」からの「思し召し、お情け」でしかない。これらの人士にとっては、社会福祉なんて、只の救貧政策でしかないのだ。それを、下手に「共助」や「公助」を求めようとしたり、況してや「社会保障は人権」なんて言おうものなら、途端に「バラマキ」だの「社会主義的」だのと罵り始めるのだ。
今の米国が正にそうなっている。表向きの「自由民主主義国家」の建前とは裏腹に、国内では経済格差や産業空洞化が広がり、サブプライムローン破産で家を失う人々が続出し、まともな就職口もなく、生きていくためには兵士となって、アフガン・イラク侵略に駆り出されるしかない。満足な公的医療保険制度もなく、それを要求する人間としての当然の権利すら、「社会主義者」だの「アカ」だのと罵られるような、歪んだ競争社会。
それが、この新党のいう「自立」であり、他のネオコン右翼新党にも色濃く影を落とす「自立」観なのだ。道理で、「志民」とか「平成維新」とか、如何にもイッパシの「国士様」気取りで、「無責任で他力本願の下々の民を引っ張っていってやる」と言わんばかりの選民エリート意識が、HPの随所で鼻に付く訳だ。
しかし、これではもはや、どこかの将軍様の国の「先軍政治」とも、そう変わらないのではないか。少なくとも、民主主義や人権とは相容れない感覚だ。こんな一握りの「強い自立した」選民エリートしか生き残っていけないような、殺伐とした社会なぞ、俺は御免蒙る。
この新党のHPについては、他にももっと言いたい事が山ほどあるが、もう夜も遅いので、後は適宜、編集・追記やコメント欄での補足の形で、書き足していく事にする。
この新党のHPには、「自立」「責任」「強い個人」といった言葉が頻繁に登場する。しかし、その言葉の意味する所が、どうも私が今まで抱いていたものとは違うのだ。若し仮に、この新党の党員・支持者と私が、ある問題で議論になったとしても、同じ「自立」という言葉一つとっても、双方で意味合いが微妙に異なる為に、多分いくら議論してもすれ違いにしかならないだろう、そんな予感がするのだ。
私にとって「自立」とは、「ホームレスの自立」「障害者の自立」とかの用法で使われるものと、同じ意味合いのものでしかない。それは、一言で言えば「人間としての当たり前の、普通の生活が送れるようになる」という事でしかない。仕事や家を失ったホームレスが、再びそれらを取り戻せる事。事故で手足を失った障害者が、義足や車椅子の力も借りて、少しでも以前と同じ様な生活を送れるようになる事。一言で言えば、日本国憲法25条で言う所の、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が保障された状態に他ならない。
しかし、この新党を始めとした、ネオコン(新保守主義者)やネオリベ(新自由主義者)といった右翼・資本家連中のいう「自立」とは、前述の私の意味とは、微妙に異なるようなのだ。普通に仕事して、普通に余暇を楽しみ、しかしその中でも人間としての喜びや誇りを失わずにいる。健康で文化的な最低限度の生活が営める・・・どうやら、それだけでは「ダメ」らしい。
そんなものは、ただ安逸を貪るだけの、「社畜」「給料泥棒」の生き方でしかない。そんな事は人間として当然の事であって、全然「プラス評価」にはならない。人間として評価されるには、それ以上に秀でた業務遂行能力なり特殊技能なりを持っていなければダメだ。奥谷禮子・城繁幸・勝間和代・イチローみたいな人だけが評価されるのだ・・・と。そういう事のようなのだ。
しかし、みんながみんな全員プロ野球選手みたいになれる筈もないし、その必要もない。若しそんな事になってしまったら、プロ野球選手も「プロ」でなく「只の人」になってしまうw。
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勿論、当該HPでも、そこまで露骨な表現はしていない。しかし、例えば当該新党HPの「私たちのめざす日本の国家像」のページにある「自由で力強い日本」とか、「立党宣言」のページにある「「選ばれる国」になるために国際競争にしのぎを削」れだとかいう言い回しの裏に、そういう露骨な弱肉強食思想が透けて見える。
ここで目指すべきとされているのは、あくまでも「普通の日本」ではなく、「強い日本」であり「選ばれし国」でなくてはならないのだ。そして、その為の「国際競争にしのぎを削」る事の出来ない「負け組・ワーキングプア」は、「死ね」とまでは言われないまでも、「しのぎを削って生きている勝ち組・資本家」の前では、小さくなっていなければならない、と。そういう価値観に貫かれている。
※真鍋昌平・作「闇金ウシジマくん」(小学館「ビッグコミックスピリッツ」連載)より
勿論、最低限の独立も維持できないような国や、日々の生活にも事欠くような国民の暮らしでは、あってはならないと私も思う。だから、国民全てが「健康で文化的な最低限度の生活が営める事」が、国としての最低条件だ。その為には、国民も、読み書きや普通の計算が出来て、普通に仕事が出来て、普通に日常生活が送れなければならない。義務教育卒業程度の学力を兼ね備え、自分の頭で物事を考えられる国民でなければならない。
その上で、メディアリテラシーの能力を身に付け、マスコミの情報操作や政府の嘘も見破る事が出来、万が一、生活困窮や不当解雇に晒されても、どういう権利や法律があり、どこに相談に行けば良いか理解できて、自分で行動できる、必要ならば周囲にも助けを借りる事が出来る。そういう「生きた学力」を体得出来れば、尚良し。そういう国民であってこそ、国としての独立も維持できる。何となれば、国民あっての国家なのだから。それが「国民の自立」であり「国家の自立」だ。少なくとも私はそう考える。
その観点からすると、今の日本は、「独立・自立している」とは到底言い難いのは確かだ。但し、それは右翼がよく言う「憲法第9条の所為」なんかではないと思う。第9条でも、国民の自衛権までは否定していないからだ。他国の侵略に際しては、国民は抵抗する権利がある。これは現憲法の下でも同じだ。仮に非武装の立場に立つとしても、「非武装国民抵抗」という考え方もあるからだ。それ以外にも専守防衛という選択肢もある。
今の日本の独立が損なわれているのは、寧ろ憲法9条よりも日米安保条約に因る所の方が大きいと思う。それが、在日米軍によるジェット機墜落事故やレイプ事件でも日本側に禄に裁判権が無い治外法権や、「思いやり予算」「核兵器の持込密約」や、普天間基地問題であろう。沖縄戦の最中に米軍がドサクサ紛れに強盗同然に作った基地一つ撤去出来ないなんて、他の米国の同盟国でも在り得ない話だ。米軍よりも遥かに軍備の劣るタイやフィリピンですら、とっくに米軍基地を撤去したと言うのに。非武装で米国の経済的従属下にある中米コスタリカでも、米国には是々非々の外交政策で臨んでいるというのに。
その「国家・国民が自立していない」という話だが、それは決して「国民道徳の衰退」や「国への依存」に帰せられるべきものではない。そうではなく、戦後ずっと続いた自民党政治が、対米追従一辺倒で来たからだ。それは前述の安全保障の問題だけでなく、例えば国内農業の衰退についても言える事だ。
農業衰退の原因は補助金依存に因るものか?違うだろう。仮にその様な依存体質があるにしても、そう仕向けてきた元凶こそが問題であろう。そして、本来食糧自給も充分可能であるにも関わらず、米国やWTOの言いなりに、減反政策やミニマム・アクセス米の義務的輸入、輸入自由化を強行してきた自民党歴代政府こそが、その最大の元凶ではないか。これは「食の安全」についても然りだ。米国や国際資本の言いなりに、BSE・遺伝子組換作物・食品添加物の規制をどんどん緩和してきたから、産地や日付の偽装も罷り通るようになったのではないか。
その輸入一辺倒の犠牲は誰が払うのか。日本の農民・消費者であり、また、国際資本によって農産物を買い叩かれ、飢餓輸出を強いられている開発途上国の農民ではないか。それを「国家依存で公徳心を無くした国民が悪い」という右翼の言い草は、正に「白を黒」と言い換える詐術でしかない。
しかし、ネオコン・ネオリベ右翼にあっては、絶対にそうは考えない。国や個人の自立を阻害しているのは、あくまでも国民の「公徳心の欠如」や「国への依存心」なのだ。そして、それを払拭する為には、「健康で文化的な最低限度の普通の暮らし」を追い求めたり、「国民みんながそこそこ食って行けて、他国の言いなりにはならず、他国を自分の属国扱いもせず、どんな国とも民主的に協調してやっていける国」であるだけでは、「ダメ」なのだ。あくまでも「強い個人」や「強い国」が求められるのだ。それが国家や国民の「自立」という事のようなのだ。
だから、「国を当てにせず」(新自由主義)、逆に「国に尽くす」(新保守主義)事が求められるのだ。正に「帝国主義国における臣民の心構え」とも言うべきものだ。
また、人間が自立するには、「自助」(自助努力、自己責任)・「共助」(助け合い、社会連帯)・「公助」(公的扶助、社会保障)の3つが共に必要なのに、この種の右翼にあっては、ひたすら「自助努力」だけが過度に強調される。
そこでは、「共助」や「公助」は、あくまでも「自助」の「付け足し」であり、それも「強い個人」からの「思し召し、お情け」でしかない。これらの人士にとっては、社会福祉なんて、只の救貧政策でしかないのだ。それを、下手に「共助」や「公助」を求めようとしたり、況してや「社会保障は人権」なんて言おうものなら、途端に「バラマキ」だの「社会主義的」だのと罵り始めるのだ。
今の米国が正にそうなっている。表向きの「自由民主主義国家」の建前とは裏腹に、国内では経済格差や産業空洞化が広がり、サブプライムローン破産で家を失う人々が続出し、まともな就職口もなく、生きていくためには兵士となって、アフガン・イラク侵略に駆り出されるしかない。満足な公的医療保険制度もなく、それを要求する人間としての当然の権利すら、「社会主義者」だの「アカ」だのと罵られるような、歪んだ競争社会。
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それが、この新党のいう「自立」であり、他のネオコン右翼新党にも色濃く影を落とす「自立」観なのだ。道理で、「志民」とか「平成維新」とか、如何にもイッパシの「国士様」気取りで、「無責任で他力本願の下々の民を引っ張っていってやる」と言わんばかりの選民エリート意識が、HPの随所で鼻に付く訳だ。
しかし、これではもはや、どこかの将軍様の国の「先軍政治」とも、そう変わらないのではないか。少なくとも、民主主義や人権とは相容れない感覚だ。こんな一握りの「強い自立した」選民エリートしか生き残っていけないような、殺伐とした社会なぞ、俺は御免蒙る。
この新党のHPについては、他にももっと言いたい事が山ほどあるが、もう夜も遅いので、後は適宜、編集・追記やコメント欄での補足の形で、書き足していく事にする。