
(号外第1面)
「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し、国外・県外移設を求める県民大会」(同実行委員会主催)が25日午後3時すぎ、読谷村運動広場で始まった。これ以上の米軍基地の押し付けを許さない沖縄の民意を日米両政府に発信しようと、会場には県内各地から参加者が続々と集結。日米特別行動委員会(SACO)合意から13年余が経過しても返還が実現しない普天間飛行場をめぐり、初めて超党派で県内移設反対を訴える歴史的な大会となった。
仲井真弘多知事はあいさつで、日米安保体制の下で沖縄が置かれている過重な基地負担の実態を訴え、負担軽減に向けた議論を深めるよう全国に呼びかけた。普天間飛行場を抱える宜野湾市や、県内の移設先として取りざたされる名護市、うるま市の首長らも決意表明。普天間飛行場の早期閉鎖・返還と国外・県外への移設を求める大会決議を採択する。
大会は、共同代表の1人である翁長雄志那覇市長の開会宣言で幕を開け、高嶺善伸県議会議長が主催者を代表してあいさつ。県内全41市町村長(2市町は代理出席)をはじめ、大会の呼び掛け人である県議、県選出・出身国会議員も会場に駆け付けた。
大会に集まった参加者は県内移設に傾く政府に「イエローカード」を突き付けようと、大会のシンボルカラーである「黄色」の衣服や小物を身につけ、会場を黄色一色に染めた。県青年団協議会のメンバーは、糸満市の沖縄平和祈念公園からの道のりを黄色のたすきでつなぐ「平和のたすきリレー」で会場に到着した。
大会スローガン
■日米地位協定の抜本的改定を求める。
■返還後の跡地利用を促進するため、国の責任で、環境浄化、経済対策などを求める。
■返還に伴う、地権者補償、基地従業員の雇用確保を国の責任で行うよう求める。
大会決議
普天間飛行場の返還は平成8年日米特別行動委員会(SACO)合意から13年経過した今なお実現を見ることはなく、その危険性は放置されたままです。
しかも、平成16年(2004年)8月13日に発生した沖縄国際大学構内への米軍海兵隊所属CH53D大型輸送機ヘリコプターの墜落事故は、市街地に位置し、住宅や学校等が密集する普天間飛行場の危険極まりない現実を明らかにしました。一歩間違えば大惨事を引き起こしかねず「世界一危険な飛行場」の存在を改めて内外に明らかにしています。しかも、平成18年(2006年)の在日米軍再編協議では同飛行場の全面返還を合意しており、県民や宜野湾市民は、最も危険な普天間飛行場を早期に全面返還し、政府の責任において跡地利用等課題解決を求めているのです。
私たち沖縄県民は、去る大戦の悲惨な教訓から戦後一貫して「命どぅ宝」、基地のない平和で安全な沖縄を希求してきました。にも関わらずSACO合意の「普天間飛行場条件つき返還」は新たな基地の県内移設に他なりません。
県民の意思はこれまで行われた住民投票や県民大会、各種世論調査などで明確に示され、移設先とされた名護市辺野古沿岸域は国の天然記念物で、国際保護獣のジュゴンをはじめとする希少生物をはぐくむ貴重な海域であり、また新たなサンゴ群落が見つかるなど世界にも類をみない美しい海域であることが確認されています。
名護市長は、辺野古の海上及び陸上への基地建設に反対しています。また、勝連半島沖埋め立て案についてはうるま市長・市議会ともに反対を表明しています。
よって、私たち沖縄県民は、県民の生命・財産・生活環境を守る立場から、日米両政府が普天間飛行場を早期に閉鎖・返還するとともに、県内移設を断念し、国外・県外に移設されるよう強く求めるものです。以上決議する。
2010年4月25日
4・25県民大会
(あて先・首相、外相、防衛相、沖縄担当相、官房長官、駐日米国大使)

(同第4面)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-161315-storytopic-220.html
昨日4月25日は沖縄・普天間づくしの一日でした。
当日は沖縄県読谷村で開催の普天間米軍基地撤去を求める県民集会(次回記事参照)に呼応して、全国各地で同様の集会・デモ・署名活動等が行われました(前回記事参照)。ここ大阪でも、午前11時から午後1時まで、大阪城公園森之宮ゲートで、市民団体による署名活動が取り組まれた訳ですが、そこに私も飛び入り参加してきました。
大阪での署名活動に取り組まれたのは、「平和と生活をむすぶ会」「無防備地域宣言運動全国ネットワーク」「平和と民主主義をめざす全国交歓会」「ジュゴン保護キャンペーンセンター」の市民4団体で、それら諸団体による共催の形で取り組まれました。私は、前記の沖縄連帯行動には何らかの形で参加しようと、既に決めていましたので、たまたま旗旗さんのサイトでこの取り組みの事を知り、急遽そちらに参加する事にしたのです。
現地へは11時20分前位に着きました。JR環状線森之宮駅を出て交差点を渡ればもうそこが現地なのですが、何とその交差点では、既に幸福実現党が政治宣伝を始めていました。何台もの車に分乗して、30歳ぐらいの信者と思しき男女が大勢やって来て、盛んにリーフレットを配布していました。
私もそのリーフレットを一部戴きましたが、例によって例の如く、ミサイルと消費税とリニア交通網の話がない混ぜになった支離滅裂な内容に、読んだら直ぐに公園のゴミ箱に捨てました。顔だけはイケメン揃いの候補者に大勢の若い男女と真新しい宣伝カーと、とても泡沫政党とは思えない物量作戦に、資金の出所を訝しく感じながら。私たちがゲートで署名活動を始めてからも、天海祐希みたいな女性信者が、暫くはこちら側にも来て盛んにリーフレットを配っていました。
やがて幸福実現党も去り、それとは10歳は平均年齢が上回ると思われる私たちでしたが、それでものべ20名位が集まって、沖縄連帯を表す黄色のリボンを着用して、ジュゴン保護と普天間撤去を訴える2種類の署名を集めました。GW間近の晴天に恵まれた日曜日という事もあって、大阪城公園に向かう若者や家族連れの行楽客が、JRや地下鉄の駅方向から、途切れてはまた次々とやって来る中での署名集めでした。その時の反応ですが、ビラも署名も受け取りを拒否する人>ビラだけは受け取ってくれる人>署名はしないながらも話まで聞いてくれる人>署名にも応じてくれる人、という感じで、行楽客が主体の会場での政治署名という以外に、やはり本土での反応の鈍さや一種の冷淡さがあるのを感じました。
それでも、自分から進んで署名に応じてくれる人も決して少なくはありませんでした。大阪には昔から大正区を中心に沖縄出身者のコミュニティーがありますが、署名に応じてくれた方も大正区在住で、自分の署名とは別に、白紙の署名用紙も2枚ほど受け取って行かれました。また、自身の英語力を生かして、ソウル在住と思しき韓国人の方から署名を戴けたスタッフの方もいました。そんな感じで、2時間で2種合わせて400筆ほどの署名を集める事が出来ました。

左上写真が私。同じく右上は、女性の市民団体会員が着ぐるみを着て、「ジュゴンで~す、どうぞ私を助けて下さい」と訴えている所。この着ぐるみが子どもたちには意外と受けた。

左上写真は、「月桃の花」歌舞団の方によるギターの弾き語りで、摩文仁の悲劇について歌っている所。同じく右上は会場に張った垂れ幕の一つ。

会場で配ったビラの一部。若し大阪市内の堺筋本町に普天間基地(面積約4.8km2、大阪城公園の約4倍)が移設されたとすると、東西は阿波座から森ノ宮までのビジネス・官庁街が、南北はOBPから松屋町の玩具問屋街までが、すっぽり占拠される形になる事が示されている。
浅はかにも私は、それで沖縄に連帯したつもりでいました。これで昨日の休日を有意義に過ごせたと、当初はブログ更新に向かう筈でしたが、当日夜10時から同種のテレビ番組がある事を知り、そちらを見てから記事更新に取りかかる事にしました。ところが、そのNHK教育・ETV特集番組「本土に問う~普天間移設問題の根底~」の最終盤の場面で、自分の一知半解ぶりを改めて思い知らされる事になりました。
当該番組は、大田昌秀氏の元沖縄県知事としての足跡をたどる形で、普天間問題の真相に探ろうとするものでした。知事在任中の1995年に起こった米兵少女暴行事件を機に、日米地位協定改定や普天間基地撤去が政治課題に上るも、それらが制度運用面の見直しや基地移設の問題に巧妙に摩り替えられ、次第に行き詰っていく中で、太田氏は次の知事選で、膠着状態打開を訴えた稲嶺恵一氏に敗れる事になります。真正面から基地撤去を掲げた革新の大田県政に対して、保守の稲嶺県政は、基地撤去を願う沖縄と安保維持の本土側との間で、一種の妥協策を探ろうとします。それが「普天間基地の軍民共用化」「15年期限の名護・辺野古への基地移設」という苦渋の選択でした。しかし、国はその苦渋の選択の上に胡坐をかく形で、更に基地固定化に突き進みます。自身の苦渋の選択も全て反故にされた稲嶺氏は、次第に基地反対に転じるようになります。

沖縄では、現与党の民主党のみならず、前与党の自民・公明両党までもが普天間基地の完全撤去(県外・国外移設)を口にするようになり、今や基地撤去が保革を超えた県民の総意となりつつある訳ですが、私は単に、それは保守陣営の世論対策にしか過ぎないと思っていました。しかし、真相はもっと根深いものでした。確かに、基地撤去の筋を通す革新側に対して、保守側は実利優先で常に国と妥協を図ろうとしてきました。しかしそれは、地元保守勢力としての苦渋の選択にしか過ぎませんでした。基地撤去という究極の目標においては、革新側とも同じ思いを共有していたのです。それを国は、地元保守勢力を単なる国家権力の手駒としか看做さず、常に嵩にかかった態度で沖縄に接してきたのです。
勿論、だからと言って、当時の稲嶺氏を初めとした沖縄保守政治家のやった事を、そのまま容認する事は出来ません。彼らの「策動」が無ければ、今の事態はもっと早く解決していたのですから。
少なくとも、米軍支配に対して身を挺して闘ってきた沖縄の革新勢力には、上記の保守勢力を裁くだけの資格は充分あります。しかし、結果的に沖縄を見捨ててきた我々本土の人間に(革新勢力も含めて)、一体彼らを裁く資格があるのだろうか?
これは言い換えれば、私を含む本土の人間が、その保革を超えた沖縄県民の思いを、どう捉えてきたかが問われている、という事に他なりません。一旦ジェット機が墜落したり暴行事件が起こったら、その被害は保革の立場に関係なく全県民に及びます。だから沖縄では、基地撤去は政治的立場を超えた県民の総意となり得るのですが、その思いをどれだけ我々が認識出来ていたのか。それが問われているのです。
かつては本土にも、沖縄のような現実が、誰の目にも分かる形で広がっていました。だから、内灘・砂川等の基地反対闘争を初め、60年・70年の安保闘争、ベ平連・沖縄返還闘争・国際反戦デー、横浜でのベトナム行き戦車輸送阻止や「パパママ・バイバイ」の悲劇を許さない闘いが、今とは比較にならない位、旺盛に取り組まれたのです。それがいつしか、ベルリンの壁崩壊、社会党解体、北朝鮮・中国脅威論の流行、政治・社会の保守化・右傾化等の影響を受けて、次第に沖縄が顧みられなくなっていったのではないでしょうか。日米安保廃棄を目指すのでも、安保の負担を全国で分かち合うのでもなく、「日米安保が大事」だと言いながら、それを沖縄だけに押し付けてきた。そうして本土の人間は、常に自らを楽な「プチブル」の立場に置いて、しんどい事は全て沖縄に押し付けてきた。その姿こそが、太田氏や稲嶺氏が告発する「沖縄差別」ではないのか。
その中で沖縄県民は、「今度は本土が苦しむ番だ」と、ネトウヨ橋下レベルの復讐心に身を苛まされるのを必死に抑えながら、「もう誰も沖縄の苦しみを味わうことがない様に」との立場で、基地撤去を目指す闘いに立ち上がっているのです。
本土ではチヤホヤされている自民亜流の欲ボケ新党も、流石に沖縄では出る幕はありません。この違いは一体何なのか。普天間問題でも、他の例えばもっと身近な職場の労働条件改善の問題でも、何故、本土の人間はもっと本気で怒らないのか。それは、しんどい事は他の誰かに押し付けて、それで自分たちの当座の生存だけを確保しようと、心のどこかで思っているからではないのか。「それで自分たちだけは生き残れる」との錯覚に囚われているからではないのか。その意味では、これは決して沖縄の問題ではなく、寧ろ日本本土に住む我々の問題ではないか、我々の姿勢こそが問われているのではないか。それを今更ながら思い知らされた一日でした。
当日は沖縄県読谷村で開催の普天間米軍基地撤去を求める県民集会(次回記事参照)に呼応して、全国各地で同様の集会・デモ・署名活動等が行われました(前回記事参照)。ここ大阪でも、午前11時から午後1時まで、大阪城公園森之宮ゲートで、市民団体による署名活動が取り組まれた訳ですが、そこに私も飛び入り参加してきました。
大阪での署名活動に取り組まれたのは、「平和と生活をむすぶ会」「無防備地域宣言運動全国ネットワーク」「平和と民主主義をめざす全国交歓会」「ジュゴン保護キャンペーンセンター」の市民4団体で、それら諸団体による共催の形で取り組まれました。私は、前記の沖縄連帯行動には何らかの形で参加しようと、既に決めていましたので、たまたま旗旗さんのサイトでこの取り組みの事を知り、急遽そちらに参加する事にしたのです。
現地へは11時20分前位に着きました。JR環状線森之宮駅を出て交差点を渡ればもうそこが現地なのですが、何とその交差点では、既に幸福実現党が政治宣伝を始めていました。何台もの車に分乗して、30歳ぐらいの信者と思しき男女が大勢やって来て、盛んにリーフレットを配布していました。
私もそのリーフレットを一部戴きましたが、例によって例の如く、ミサイルと消費税とリニア交通網の話がない混ぜになった支離滅裂な内容に、読んだら直ぐに公園のゴミ箱に捨てました。顔だけはイケメン揃いの候補者に大勢の若い男女と真新しい宣伝カーと、とても泡沫政党とは思えない物量作戦に、資金の出所を訝しく感じながら。私たちがゲートで署名活動を始めてからも、天海祐希みたいな女性信者が、暫くはこちら側にも来て盛んにリーフレットを配っていました。
やがて幸福実現党も去り、それとは10歳は平均年齢が上回ると思われる私たちでしたが、それでものべ20名位が集まって、沖縄連帯を表す黄色のリボンを着用して、ジュゴン保護と普天間撤去を訴える2種類の署名を集めました。GW間近の晴天に恵まれた日曜日という事もあって、大阪城公園に向かう若者や家族連れの行楽客が、JRや地下鉄の駅方向から、途切れてはまた次々とやって来る中での署名集めでした。その時の反応ですが、ビラも署名も受け取りを拒否する人>ビラだけは受け取ってくれる人>署名はしないながらも話まで聞いてくれる人>署名にも応じてくれる人、という感じで、行楽客が主体の会場での政治署名という以外に、やはり本土での反応の鈍さや一種の冷淡さがあるのを感じました。
それでも、自分から進んで署名に応じてくれる人も決して少なくはありませんでした。大阪には昔から大正区を中心に沖縄出身者のコミュニティーがありますが、署名に応じてくれた方も大正区在住で、自分の署名とは別に、白紙の署名用紙も2枚ほど受け取って行かれました。また、自身の英語力を生かして、ソウル在住と思しき韓国人の方から署名を戴けたスタッフの方もいました。そんな感じで、2時間で2種合わせて400筆ほどの署名を集める事が出来ました。


左上写真が私。同じく右上は、女性の市民団体会員が着ぐるみを着て、「ジュゴンで~す、どうぞ私を助けて下さい」と訴えている所。この着ぐるみが子どもたちには意外と受けた。


左上写真は、「月桃の花」歌舞団の方によるギターの弾き語りで、摩文仁の悲劇について歌っている所。同じく右上は会場に張った垂れ幕の一つ。

会場で配ったビラの一部。若し大阪市内の堺筋本町に普天間基地(面積約4.8km2、大阪城公園の約4倍)が移設されたとすると、東西は阿波座から森ノ宮までのビジネス・官庁街が、南北はOBPから松屋町の玩具問屋街までが、すっぽり占拠される形になる事が示されている。
浅はかにも私は、それで沖縄に連帯したつもりでいました。これで昨日の休日を有意義に過ごせたと、当初はブログ更新に向かう筈でしたが、当日夜10時から同種のテレビ番組がある事を知り、そちらを見てから記事更新に取りかかる事にしました。ところが、そのNHK教育・ETV特集番組「本土に問う~普天間移設問題の根底~」の最終盤の場面で、自分の一知半解ぶりを改めて思い知らされる事になりました。
当該番組は、大田昌秀氏の元沖縄県知事としての足跡をたどる形で、普天間問題の真相に探ろうとするものでした。知事在任中の1995年に起こった米兵少女暴行事件を機に、日米地位協定改定や普天間基地撤去が政治課題に上るも、それらが制度運用面の見直しや基地移設の問題に巧妙に摩り替えられ、次第に行き詰っていく中で、太田氏は次の知事選で、膠着状態打開を訴えた稲嶺恵一氏に敗れる事になります。真正面から基地撤去を掲げた革新の大田県政に対して、保守の稲嶺県政は、基地撤去を願う沖縄と安保維持の本土側との間で、一種の妥協策を探ろうとします。それが「普天間基地の軍民共用化」「15年期限の名護・辺野古への基地移設」という苦渋の選択でした。しかし、国はその苦渋の選択の上に胡坐をかく形で、更に基地固定化に突き進みます。自身の苦渋の選択も全て反故にされた稲嶺氏は、次第に基地反対に転じるようになります。


沖縄では、現与党の民主党のみならず、前与党の自民・公明両党までもが普天間基地の完全撤去(県外・国外移設)を口にするようになり、今や基地撤去が保革を超えた県民の総意となりつつある訳ですが、私は単に、それは保守陣営の世論対策にしか過ぎないと思っていました。しかし、真相はもっと根深いものでした。確かに、基地撤去の筋を通す革新側に対して、保守側は実利優先で常に国と妥協を図ろうとしてきました。しかしそれは、地元保守勢力としての苦渋の選択にしか過ぎませんでした。基地撤去という究極の目標においては、革新側とも同じ思いを共有していたのです。それを国は、地元保守勢力を単なる国家権力の手駒としか看做さず、常に嵩にかかった態度で沖縄に接してきたのです。
勿論、だからと言って、当時の稲嶺氏を初めとした沖縄保守政治家のやった事を、そのまま容認する事は出来ません。彼らの「策動」が無ければ、今の事態はもっと早く解決していたのですから。
少なくとも、米軍支配に対して身を挺して闘ってきた沖縄の革新勢力には、上記の保守勢力を裁くだけの資格は充分あります。しかし、結果的に沖縄を見捨ててきた我々本土の人間に(革新勢力も含めて)、一体彼らを裁く資格があるのだろうか?
これは言い換えれば、私を含む本土の人間が、その保革を超えた沖縄県民の思いを、どう捉えてきたかが問われている、という事に他なりません。一旦ジェット機が墜落したり暴行事件が起こったら、その被害は保革の立場に関係なく全県民に及びます。だから沖縄では、基地撤去は政治的立場を超えた県民の総意となり得るのですが、その思いをどれだけ我々が認識出来ていたのか。それが問われているのです。
かつては本土にも、沖縄のような現実が、誰の目にも分かる形で広がっていました。だから、内灘・砂川等の基地反対闘争を初め、60年・70年の安保闘争、ベ平連・沖縄返還闘争・国際反戦デー、横浜でのベトナム行き戦車輸送阻止や「パパママ・バイバイ」の悲劇を許さない闘いが、今とは比較にならない位、旺盛に取り組まれたのです。それがいつしか、ベルリンの壁崩壊、社会党解体、北朝鮮・中国脅威論の流行、政治・社会の保守化・右傾化等の影響を受けて、次第に沖縄が顧みられなくなっていったのではないでしょうか。日米安保廃棄を目指すのでも、安保の負担を全国で分かち合うのでもなく、「日米安保が大事」だと言いながら、それを沖縄だけに押し付けてきた。そうして本土の人間は、常に自らを楽な「プチブル」の立場に置いて、しんどい事は全て沖縄に押し付けてきた。その姿こそが、太田氏や稲嶺氏が告発する「沖縄差別」ではないのか。
その中で沖縄県民は、「今度は本土が苦しむ番だ」と、ネトウヨ橋下レベルの復讐心に身を苛まされるのを必死に抑えながら、「もう誰も沖縄の苦しみを味わうことがない様に」との立場で、基地撤去を目指す闘いに立ち上がっているのです。
本土ではチヤホヤされている自民亜流の欲ボケ新党も、流石に沖縄では出る幕はありません。この違いは一体何なのか。普天間問題でも、他の例えばもっと身近な職場の労働条件改善の問題でも、何故、本土の人間はもっと本気で怒らないのか。それは、しんどい事は他の誰かに押し付けて、それで自分たちの当座の生存だけを確保しようと、心のどこかで思っているからではないのか。「それで自分たちだけは生き残れる」との錯覚に囚われているからではないのか。その意味では、これは決して沖縄の問題ではなく、寧ろ日本本土に住む我々の問題ではないか、我々の姿勢こそが問われているのではないか。それを今更ながら思い知らされた一日でした。