今回が多分、堺市長選関連の最終記事になると思う。とうとう投票日当日にずれ込んでの記事作成になってしまったが、前から気になっていた事をここで書く。
それは、今回の堺市長選に限らず、地元の選挙ビラ全戸配布でも気になっていた事だが、各家庭の郵便受けやマンションの集合ポストの中がチラシやビラであふれかえっている事だ。そして、水道・ガス料金の滞納・督促通知の封筒もあちこちで目につく事だ。文化住宅なぞ、場所によっては半数以上の戸数にこれらの封筒がぶら下げられていたりする。また、建売住宅や賃貸マンションも含め、数週間前に撒いたビラがまだ郵便受けにグチャグチャになって溜まっている所も多い。
これを単に人心の荒廃や公徳心の欠如とだけ見るのは容易いが、問題はもっと根深い所にあると思う。日々のチラシやビラに目を通す余裕すらないほど、生活に追われている住民がこれほどもいるのかと思うと、ビラを撒いていても暗澹たる気持ちになる。
その一方で、セキュリティ会社に委託して機械警備をしてもらっている一戸建ての豪邸なぞは、ビラやチラシ類が溜まりまくっている事はまず無いが、その代わりに獰猛な飼い犬がいたり、郵便受けにビラを投函しただけで不審侵入の警告音が作動して、びっくりさせられた事が今までも度々あった。
チラシやビラに目を通す余裕すらない、日々の水光熱費の支払いにも事欠く家庭が数多くある一方で、鉄条網が張り巡らされたコンクリート造りの高塀にガチガチのセキュリティで守られた豪邸が、同じ地域にモザイク状に混在している様は、正に今の日本の格差社会を象徴しているように思える。
日本はいつからこんな社会になってしまったのだろうか。勿論、私の子供の頃にも、同じ地域に豪邸も長屋みたいな文化住宅も混在していた。オートロック式のマンションこそなかったものの。でも、その頃は今の様に、戸口のポストがチラシであふれかえっていたり、滞納通知の封筒がそこかしこにぶら下げられているような事はなかったように思う。何分、子供時分の事なので、選挙のビラ撒きをする事もなかったし、地域の景気動向に関心ある訳ではなかったが、少なくとも今ほど酷くはなかったように思う。
私の言っている事がオーバーだと思う人は、非正規労働の現場に飛び込んでそこで働くバイトの若者に、選挙の投票に行ったかどうか聞けば良い。地方選挙より遥かに投票率の高い国政選挙でも、せいぜい10数人中1人か2人位しか投票には行っていないから。そもそも、今日び日曜・祝日も仕事で休めない人も大勢いるのだ。そんな人が、わざわざ有休取ってまで投票に行くか?期日前投票で自宅から遠く離れた市役所まで足を運ぶか?
今や日本は、OECD加盟国の中でも、メキシコ・トルコ・米国に次ぐ貧困・格差大国になってしまった。相対的貧困率は16%に及び、生活保護受給世帯は200万を超え、年間自殺者も毎年3万人を超える殺伐とした社会になってしまった。にも拘らず、貧困問題がなかなか自分の問題として捉えられないのも、経済格差が、開発途上国や中国の様に、都市部と地方、内陸部と沿岸部といった地域対立の形では現れずに、同じ地域内の「個人差」みたいな形でモザイク状に現れてしまっているために、ともすれば、それを個人の甲斐性や自己責任として捉えられてしまっているからではないか。
同じ地域の中に高級住宅地とスラムが混在し、しかも、それらが決して共生する事無く、互いに排除し合う「貧富のモザイク分布」の中からは、ともすれば、格差拡大が政府や財界による増税や福祉切り捨て、非正規雇用への置き換え政策によるもので、それを「人権侵害」と取るよりも、寧ろ「あくまでも個人の努力が足らないからだ」、「それを乗り越える為には、もっと競争を激化させて弱者を淘汰し、強者のみで日本を支え、少数精鋭の効率経営で世界と勝負しなければならない」、「その為には、自治体の数ももっと減らして、弱者向けの施策もどんどん切り捨て、関空・湾岸開発やカジノ・リニア誘致にもっと投資して、大企業がもっと潤うようにしなければならない」とする、維新の新自由主義的な主張が一定の説得力を持ってしまうのも、何となく理解できるような気がする。
70年代以降の大阪府知事選の投票率と当選者の得票率の推移を比較してみたのが上記の表だ。表の緑色の折れ線グラフが自民党など保守系候補の得票率、同じく青が共産党・革新系候補の得票率、そしてピンクが府知事選投票率の推移を示したものだ。その表からも上記の仮説が裏付けられるのではないだろうか。
例えば、1971年の知事選では63%の投票率で、社共推薦の黒田了一が49.8%の得票率で当選している。全有権者比の絶対得票率で見ると31.37%だ。ところが、2008年の知事選では48.95%の投票率で、自公推薦の橋下徹が54%の得票率で当選。同じく絶対得票率で見ると僅か26.43%しかない。これが「お笑い百万票」「モンスター」と称された橋下人気の実態だ。
実際には一期目の黒田革新知事よりも低い絶対得票率しか獲得できず、絶対数では有権者の4分の1からしか支持されなかった初当選時の橋下が、リストラで政治どころではなくなった有権者の無関心(投票率低下)に助けられ、今まで民意を詐称し大阪を食い物にしてきたのだ。
勿論、投票率低下の要因はそれだけではない。同和問題を機に共産党と袂を分かった社会党は、次第に自民党に取り込まれ、1979年には保守府政の与党に。他方、自社公民オール与党体制から排除された共産党は次第に勢力をそがれ万年野党化。その中で行き場を失った革新票は、やがて政治そのものを見限るようになり、大部分が棄権に回るが、その一部は横山ノックなどのタレント知事に、後に維新に流れるようになる。やがて自民党にも飽き足らない有権者の票も集めるようになった維新は、マスコミの扇動もあって次第に巨大化。
でも、維新も所詮は自民の補完勢力でしかなかった。憲法や外交・安保でも経済政策でも自民党よりも更に右寄りの主張を展開。この段階で、普通なら反自民票は維新から離れる筈なのに、それが今までかかったのは何故か。有権者の中にも、労働者同士が連帯して搾取と闘うよりも、「こいつより私の方が頑張っているのに、何故私の給料の方がこいつより低いのか」という気持ちがあったからだ。それが維新の新自由主義的主張を今まで支えてきた。
しかし、そのペテンもいつまでも続かない。慰安婦肯定やオスプレイ配備賛成で維新の自民補完勢力としての本質が完全に明らかになり、有権者の維新離れが加速。焦った維新は堺市長選挙で起死回生を狙うも、ここでもデマ宣伝に終始し却って墓穴を掘る破目に。自民はそれとは対照的に、「大阪都構想」や「維新の横暴」に対する有権者の反発に引きずられる形で、次第に反維新色を鮮明に。恐らく今回の堺市長選挙では維新が敗北する事になるだろう。だが、この「貧富のモザイク」をなくさない限り、また第二、第三の橋下・維新が生まれて来るだけではないか。
確かに「歴史はらせん状に発展・進歩する」と言われている。表面上は同じ歴史が繰り返されるように見えても、実際は全く同じ歴史の繰り返しではなく、徐々に社会は進歩している事は、第1次大戦前の世界と第2次大戦後数十年を経た現代社会を比べるだけでもよく分かる。第1次大戦前では当たり前だった植民地支配や搾取は、今でも「開発援助」や「ブラック企業」などの形で隠然とは行われてはいるが、少なくとも建前上は影を潜めるようになった。そういう意味では、維新のペテンもいつか完全に破綻する日が来るのは確かだが、それは今のままでは、まだずっと先ではないかという気がする。
それは、今回の堺市長選に限らず、地元の選挙ビラ全戸配布でも気になっていた事だが、各家庭の郵便受けやマンションの集合ポストの中がチラシやビラであふれかえっている事だ。そして、水道・ガス料金の滞納・督促通知の封筒もあちこちで目につく事だ。文化住宅なぞ、場所によっては半数以上の戸数にこれらの封筒がぶら下げられていたりする。また、建売住宅や賃貸マンションも含め、数週間前に撒いたビラがまだ郵便受けにグチャグチャになって溜まっている所も多い。
これを単に人心の荒廃や公徳心の欠如とだけ見るのは容易いが、問題はもっと根深い所にあると思う。日々のチラシやビラに目を通す余裕すらないほど、生活に追われている住民がこれほどもいるのかと思うと、ビラを撒いていても暗澹たる気持ちになる。
その一方で、セキュリティ会社に委託して機械警備をしてもらっている一戸建ての豪邸なぞは、ビラやチラシ類が溜まりまくっている事はまず無いが、その代わりに獰猛な飼い犬がいたり、郵便受けにビラを投函しただけで不審侵入の警告音が作動して、びっくりさせられた事が今までも度々あった。
チラシやビラに目を通す余裕すらない、日々の水光熱費の支払いにも事欠く家庭が数多くある一方で、鉄条網が張り巡らされたコンクリート造りの高塀にガチガチのセキュリティで守られた豪邸が、同じ地域にモザイク状に混在している様は、正に今の日本の格差社会を象徴しているように思える。
日本はいつからこんな社会になってしまったのだろうか。勿論、私の子供の頃にも、同じ地域に豪邸も長屋みたいな文化住宅も混在していた。オートロック式のマンションこそなかったものの。でも、その頃は今の様に、戸口のポストがチラシであふれかえっていたり、滞納通知の封筒がそこかしこにぶら下げられているような事はなかったように思う。何分、子供時分の事なので、選挙のビラ撒きをする事もなかったし、地域の景気動向に関心ある訳ではなかったが、少なくとも今ほど酷くはなかったように思う。
私の言っている事がオーバーだと思う人は、非正規労働の現場に飛び込んでそこで働くバイトの若者に、選挙の投票に行ったかどうか聞けば良い。地方選挙より遥かに投票率の高い国政選挙でも、せいぜい10数人中1人か2人位しか投票には行っていないから。そもそも、今日び日曜・祝日も仕事で休めない人も大勢いるのだ。そんな人が、わざわざ有休取ってまで投票に行くか?期日前投票で自宅から遠く離れた市役所まで足を運ぶか?
今や日本は、OECD加盟国の中でも、メキシコ・トルコ・米国に次ぐ貧困・格差大国になってしまった。相対的貧困率は16%に及び、生活保護受給世帯は200万を超え、年間自殺者も毎年3万人を超える殺伐とした社会になってしまった。にも拘らず、貧困問題がなかなか自分の問題として捉えられないのも、経済格差が、開発途上国や中国の様に、都市部と地方、内陸部と沿岸部といった地域対立の形では現れずに、同じ地域内の「個人差」みたいな形でモザイク状に現れてしまっているために、ともすれば、それを個人の甲斐性や自己責任として捉えられてしまっているからではないか。
同じ地域の中に高級住宅地とスラムが混在し、しかも、それらが決して共生する事無く、互いに排除し合う「貧富のモザイク分布」の中からは、ともすれば、格差拡大が政府や財界による増税や福祉切り捨て、非正規雇用への置き換え政策によるもので、それを「人権侵害」と取るよりも、寧ろ「あくまでも個人の努力が足らないからだ」、「それを乗り越える為には、もっと競争を激化させて弱者を淘汰し、強者のみで日本を支え、少数精鋭の効率経営で世界と勝負しなければならない」、「その為には、自治体の数ももっと減らして、弱者向けの施策もどんどん切り捨て、関空・湾岸開発やカジノ・リニア誘致にもっと投資して、大企業がもっと潤うようにしなければならない」とする、維新の新自由主義的な主張が一定の説得力を持ってしまうのも、何となく理解できるような気がする。
70年代以降の大阪府知事選の投票率と当選者の得票率の推移を比較してみたのが上記の表だ。表の緑色の折れ線グラフが自民党など保守系候補の得票率、同じく青が共産党・革新系候補の得票率、そしてピンクが府知事選投票率の推移を示したものだ。その表からも上記の仮説が裏付けられるのではないだろうか。
例えば、1971年の知事選では63%の投票率で、社共推薦の黒田了一が49.8%の得票率で当選している。全有権者比の絶対得票率で見ると31.37%だ。ところが、2008年の知事選では48.95%の投票率で、自公推薦の橋下徹が54%の得票率で当選。同じく絶対得票率で見ると僅か26.43%しかない。これが「お笑い百万票」「モンスター」と称された橋下人気の実態だ。
実際には一期目の黒田革新知事よりも低い絶対得票率しか獲得できず、絶対数では有権者の4分の1からしか支持されなかった初当選時の橋下が、リストラで政治どころではなくなった有権者の無関心(投票率低下)に助けられ、今まで民意を詐称し大阪を食い物にしてきたのだ。
勿論、投票率低下の要因はそれだけではない。同和問題を機に共産党と袂を分かった社会党は、次第に自民党に取り込まれ、1979年には保守府政の与党に。他方、自社公民オール与党体制から排除された共産党は次第に勢力をそがれ万年野党化。その中で行き場を失った革新票は、やがて政治そのものを見限るようになり、大部分が棄権に回るが、その一部は横山ノックなどのタレント知事に、後に維新に流れるようになる。やがて自民党にも飽き足らない有権者の票も集めるようになった維新は、マスコミの扇動もあって次第に巨大化。
でも、維新も所詮は自民の補完勢力でしかなかった。憲法や外交・安保でも経済政策でも自民党よりも更に右寄りの主張を展開。この段階で、普通なら反自民票は維新から離れる筈なのに、それが今までかかったのは何故か。有権者の中にも、労働者同士が連帯して搾取と闘うよりも、「こいつより私の方が頑張っているのに、何故私の給料の方がこいつより低いのか」という気持ちがあったからだ。それが維新の新自由主義的主張を今まで支えてきた。
しかし、そのペテンもいつまでも続かない。慰安婦肯定やオスプレイ配備賛成で維新の自民補完勢力としての本質が完全に明らかになり、有権者の維新離れが加速。焦った維新は堺市長選挙で起死回生を狙うも、ここでもデマ宣伝に終始し却って墓穴を掘る破目に。自民はそれとは対照的に、「大阪都構想」や「維新の横暴」に対する有権者の反発に引きずられる形で、次第に反維新色を鮮明に。恐らく今回の堺市長選挙では維新が敗北する事になるだろう。だが、この「貧富のモザイク」をなくさない限り、また第二、第三の橋下・維新が生まれて来るだけではないか。
確かに「歴史はらせん状に発展・進歩する」と言われている。表面上は同じ歴史が繰り返されるように見えても、実際は全く同じ歴史の繰り返しではなく、徐々に社会は進歩している事は、第1次大戦前の世界と第2次大戦後数十年を経た現代社会を比べるだけでもよく分かる。第1次大戦前では当たり前だった植民地支配や搾取は、今でも「開発援助」や「ブラック企業」などの形で隠然とは行われてはいるが、少なくとも建前上は影を潜めるようになった。そういう意味では、維新のペテンもいつか完全に破綻する日が来るのは確かだが、それは今のままでは、まだずっと先ではないかという気がする。
任期満了に伴う堺市長選は29日投開票され、無所属現職の竹山修身氏(63)=自民支持、民主推薦=が、地域政党「大阪維新の会」公認の新人で元堺市議の西林克敏氏(43)を破り、再選を果たした。最大の争点だった「大阪都」構想への堺市の参加の是非については「ノー」が突き付けられた形だ。維新の公認候補が政令市以上の首長選で敗れるのは初めて。投票率は50.69%と、前回(43.93%)を上回った。
維新にとっては、党設立のきっかけとなった政策を地元大阪で否定されたことになり、日本維新の会の国政での影響力や、同党共同代表の橋下徹大阪市長の求心力低下につながるのは必至だ。また、来秋に予定される大阪市での住民投票にも影響が出るとみられる。
橋下氏は同日夜、松井一郎大阪府知事(日本維新幹事長)と共に、堺市内で記者会見し、「都構想で堺がなくなるわけではないと伝えることが、正直不足していた」と述べた。また、敗北の責任を取って、自身と松井氏が、日本維新、大阪維新の役職を辞する考えはないことを明らかにした。
都構想による堺市の特別区への分割に反対する竹山氏は「堺は一つ。堺はなくさない」と主張。今年2月に早々に出馬を表明して以来、駅前での演説や市民向けのミニ集会などを重ね、支持拡大を図った。選挙戦では自民、民主両党に加え、共産党、社民党の自主的な支援も受けて、幅広い層に浸透した。
一方、西林氏は「今こそ堺で大改革をしなければならない。(府と政令市を統合し)ワン大阪で堺を元気にしていく」と強調。橋下氏が連日堺入りして支持を呼び掛けたほか、所属の国会議員や府内選出の地方議員を総動員して臨んだが、及ばなかった。(以上、時事通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130929-00000088-jij-pol
この橋下・維新のせいで、反維新・反自民の大阪府民がどれだけ悔しい思いをしてきた事か。たった府民の4分の1からしか支持されていなかったくせに、「俺様が民意だ大阪だ」と振る舞われたお蔭で、一部の左派ブロガーからも、まるで大阪人全体が維新を支持しているみたいに後ろ指を指されてきたのだから。
かつては定数一の参院補選で自民党の森下泰を蹴落とし、共産党の沓脱タケ子を当選させた輝かしい革新的伝統もあるのに。
平成25年9月29日執行 堺市長選挙確定票数
投票率 50.69%
候補者名 竹山おさみ 西林克敏
堺区------37,454------21,764
中区------26,657------18,614
東区------22,276------14,988
西区------32,388------21,097
南区------31,678------33,557
北区------39,103------24,190
美原区-----8,875-------6,359
合計-----198,431-----140,569
http://sakaisenkyo.jp/data/kaihyo_data_10.html