先日、渋谷区松濤の戸栗美術館に姉と行ってきたのですが、
ダーリンに話をしたら、行きたいというので再び。
前回は数々の鍋島の秀作に感心するばかりでしたが、
2度目ということで少し冷静に見れたつもりです。
製作や歴史面で書かれていたことで思い違いだったかしら?と
気になっていたことも見直してちょっとすっきり。
前回の日記でTom姉さんがコメントしてくれた
>先生に聞いたらあの時代の絵付けは型などなかったらしい
>絵付け職人が同じイメージでそれぞれ書いたものだって 転写もなしに・・・
というのがどうにもひっかかってたんだけど、
先生のおっしゃってる絵付けの型というのは印判のことでは?
美術館の資料によれば、墨による転写をしていたとありました。
この「転写」は印刷のようなものではなく、あくまでも下書きの
段階で線書きの「あたりをつける」という意味合いでしょう。
また、コメントにはなかったことですが、
陽刻についてTom姉さんに聞かれたとき、
「陽刻っていうくらいだから浮き彫りにしたんじゃ?」と
いいかげんなことを答えてしまったんですが、
型により、変形皿や陽刻の成形をしていたことが、当時有田の職人の
制作風景を大皿に描いた「有田皿山職人尽くし絵図大皿」でわかります。
これは江戸時代に焼かれた大皿の写真と、それを現代作家が制作した
写し物が戸栗美術館にありました。
ネットで技法について説明されているサイトを見つけましたので参考に。
これは伊万里についてですが、鍋島もほぼ共通ではないでしょうか?
伊万里焼の技法
トップページは佐賀ときめき大学
これによると型押し、型打ちの技法は磁器特有であった
(陶器にはほとんど見られなかった)とあります。
絵付けについては、絵付けの職人がそれぞれ手書きをしていたとしか
ないので印判を使ってないことはわかりますが、下書きの転写技術が
あったかどうかは文章から判断できません。
miyamiya姉さんの
>かつての九谷に通ずる
古鍋島、または初期鍋島の中には古九谷を思わせる配色があると思いました。
もともと、古九谷については、加賀説の他に肥前説もありますのでこのあたりは
複雑な話しになることと。。。
金襴手は鍋島では一般に見られないのですが、戸栗美術館では、古鍋島や後期の
鍋島にわずかにあったと説明されていました。
ダーリンに話をしたら、行きたいというので再び。
前回は数々の鍋島の秀作に感心するばかりでしたが、
2度目ということで少し冷静に見れたつもりです。
製作や歴史面で書かれていたことで思い違いだったかしら?と
気になっていたことも見直してちょっとすっきり。
前回の日記でTom姉さんがコメントしてくれた
>先生に聞いたらあの時代の絵付けは型などなかったらしい
>絵付け職人が同じイメージでそれぞれ書いたものだって 転写もなしに・・・
というのがどうにもひっかかってたんだけど、
先生のおっしゃってる絵付けの型というのは印判のことでは?
美術館の資料によれば、墨による転写をしていたとありました。
この「転写」は印刷のようなものではなく、あくまでも下書きの
段階で線書きの「あたりをつける」という意味合いでしょう。
また、コメントにはなかったことですが、
陽刻についてTom姉さんに聞かれたとき、
「陽刻っていうくらいだから浮き彫りにしたんじゃ?」と
いいかげんなことを答えてしまったんですが、
型により、変形皿や陽刻の成形をしていたことが、当時有田の職人の
制作風景を大皿に描いた「有田皿山職人尽くし絵図大皿」でわかります。
これは江戸時代に焼かれた大皿の写真と、それを現代作家が制作した
写し物が戸栗美術館にありました。
ネットで技法について説明されているサイトを見つけましたので参考に。
これは伊万里についてですが、鍋島もほぼ共通ではないでしょうか?
伊万里焼の技法
トップページは佐賀ときめき大学
これによると型押し、型打ちの技法は磁器特有であった
(陶器にはほとんど見られなかった)とあります。
絵付けについては、絵付けの職人がそれぞれ手書きをしていたとしか
ないので印判を使ってないことはわかりますが、下書きの転写技術が
あったかどうかは文章から判断できません。
miyamiya姉さんの
>かつての九谷に通ずる
古鍋島、または初期鍋島の中には古九谷を思わせる配色があると思いました。
もともと、古九谷については、加賀説の他に肥前説もありますのでこのあたりは
複雑な話しになることと。。。
金襴手は鍋島では一般に見られないのですが、戸栗美術館では、古鍋島や後期の
鍋島にわずかにあったと説明されていました。
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